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同窓会会報から 岡山裕行(奈良県)

同窓会会報から 岡山裕行(奈良県)

自治医大 青春白書 -学生寮と下宿生活-

(医)拓誠会辻村病院 岡山裕行(奈良1期)

奈良県の山間部にある内科系66床(現在一般20床、療養型44床)の小さな民間病院に昭和63年から30年間勤務しています。昨年前期高齢者のひとりとなりました。遠い昔の学生時代を思い出して書きますが、いっぱいあって記憶違いがあるかもしれません。

高校は奈良県の進学校に入学したものの膨大な学習量についていけず、浪人してやっと受験勉強ができた状態でした。東京で自治医大の二次試験があったとき代官山にある奈良県の宿泊施設に泊まり初めて相良洋三君に会いました。相良君は現在私どもの病院に週一日非常勤で来てくれています。二次試験が終わったあと目黒パンテオンという映画館で有名な「風と共に去りぬ」を観ました。4時間迫力ある映像に引き込まれ、これが総天然色の戦前の映画とは驚きでした。結果は不合格で二浪を覚悟したとき、補欠で自治医大に入学することができました。受験勉強や大学受験で焦っている夢を今でも見ることがあります。一期生は現役、一浪、二浪以上がそれぞれ三分の一ずつだったように記憶しています。

大学受験の不安から解放され親元を遠く離れ、家族のことを考えることもなく自分のことだけ考えればいいというパラダイスな日々が始まりました。入寮してすぐに大阪の煖エ教雄君がワンダーフォーゲル部の勧誘をしていました。運動競技の能力や他の趣味もないので入部することにしました。経験者は煖エ君のみであり、彼の指導のもとに登山靴などの道具をもとめ東京へ買い物に繰り出しました。初めての山行は5月に日帰りで那須岳に行きました。夏山合宿は北アルプスで行い樹林帯を超えて登る山の景色が美しく、日の出前の山の黄色やオレンジ色の朝焼けをはじめてみました。風呂に入らない日が続くので背中の汗で皮膚が荒れて痛痒くなりましたが、合宿の最後は新穂高温泉の露天風呂で締めくくり気持ちよく帰郷しました。熱心な部員ではなかったので合宿に参加しない年もありましたが、男体山、後立山、大雪山(写真)、八ヶ岳、尾瀬などに行きました。ワンゲル部主催で公開ワンデリングを企画し学生課の大木さんの協力を得てバスをチャーターして参加者を募り、体育の日に男体山登山をおこない日光の素晴らしい紅葉を楽しみました。

学生寮の生活は校舎が近く便利でした。2年間は今の学生のように基礎医学を学ぶこともなく時間がたっぷりありましたが、先輩がいないので学生生活の見本がなく学外に出るのも不便で友人と話すか本を読むしかなかった。鈴木伝次先生が英語教育に熱心で寮内では英語ブームがありました。静岡の仲田和正君のように英検一級を取得したり、築地治久君は三年目を休学して留学していきました。自分も休学したかったけれど英語の実力がともなわず実現できませんでした。

海外旅行をする人が多かった。昭和47年の日中国交正常化のあと中国ブームがあり昭和49年3月尾身 茂君を団長とする訪中団が結成され自治医大生17名が香港経由で広州、南京、北京と列車で北上して見聞し自分も参加しました。昭和51年3月には一か月間いろいろ失敗をしながらヨーロッパ一人旅に出かけました。西ドイツのデュイスブルクでは栃木の大川藤夫君の紹介で友人の女子医学生の自宅に数日滞在しました。

二期生、三期生が入学してその都度寮の部屋替えがおこなわれました。ワンゲルの愛媛の伊藤拓夫君が隣部屋で出入りしていましたがそのほかの後輩とはほとんど付き合いが無く同級生が散らばり部屋を探しにくくなりました。学生が増えてからスリッパが無くなることが増え名前を大きく書いても無くなり不愉快でした。寮生活に飽きてきたため3年生の基礎医学の実習や実験が終わったあと春休みに寮を出ることにしました。大学書房の金田さんに2トントラックを借りて宮城の高橋喜成君と山梨の関戸清貴君と自分の荷物を荷台に積んで石橋駅の近くのそれぞれの下宿に運びました。高橋君の下宿は6畳一間とトイレがあるが水道がない、関戸君の下宿は一軒家の二階を間借り、自分は四畳半一間のみでトイレと水道は外でした。一年後に高橋君はアパートに引っ越し、自分も水道とトイレのある下宿に引っ越して関戸君は卒業まで間借りを続けました。大学へは中古の自転車で通学していましたが、高橋君が引っ越してからスバルR2の中古車を買ったので乗せてもらい、しばらくして自分もスズキフロンテの中古車を5万円で買いました。関戸君はドロップハンドルの自転車に乗っていたように思います。学生寮の冬はセントラルヒーティングで暖かいですが、下宿は寒く真冬にコップの水が凍ったことがあります。大木さんが石油ストーブを貸してくれて3年間使わせてもらいました。

石橋の駅前通りに北條薬局があり向かいが割烹安兵衛です。下宿をさがしているときに薬局に立ち寄ったのがきっかけでしばしば休日に遊びに行くようになり、厚かましく夕食を何度もごちそうになりました。ご夫婦にこどもがいなかったためか親切にしていただきました。卒業後に何度か訪問しましたが5年前にご主人が亡くなり高橋喜成君と墓参りにいきました。一度も奈良を案内できなかったことが悔やまれます。

下宿を変わってからクラシックギターを習い始めました。石橋の永田理髪店の主人が教えていて一年ほど通いました。宇都宮の楽器店を紹介してもらい5万円の松岡良治のギターとギターケースを買いました。高橋君がリコーダーを吹いていたのでリコーダーとギターの二重奏をたまにやっていました。このギターは今も病院のイベントなどで使っています。腕のほうは万年初級でありますが楽しむことはできます。大川君に誘われ栃木合唱団に高橋君と3人で入団し、1年後に栃木の岩下清志君が加わりました(写真)。大学関係者ではない人達とも交流したいと思っていましたので、毎週栃木市の市民ホールに高橋君のスバルR2に乗って練習に通いました。自分の声が小さくこもっていても合唱なのであまり気にならずほかの団員がカバーしてくれます。市民ホールでの定期発表会や合唱コンクールに出演したり、栃木市のキリスト教会で讃美歌のコーラスを担当したことがありました。そして合唱団で知り合った女性と卒業後に結婚しました。

学業については成績不良でありましたが、大学の温情により追試、再試を繰り返し落第することなく卒業することができました。昭和52年の10月31日から11月2日まで三日間日光研修所で20人の成績不良者の合宿がおこなわれ参加しました。11月3日にはめでたく長野の村石 修君の結婚披露パーティーが牛久シャトーであり出席しました。卒業試験や国試の勉強は下宿ではなく煖エ教雄君や福井の内田直孝君と大学の小さな一室を共有で使っていました。その部屋が大学のどこにあったのか、誰に使用許可をもらったのか全く思い出せない。なんとなく病棟より上の階だったような気もします。毎日夜遅くまで勉強したあと学生寮の風呂に入って下宿に帰りました。吉新通康君らが自主的に国試対策委員となり問題集を作ってくれたのでありがたく購入しました。昭和53年3月に卒業し国試を受験して6年間の学生生活が終わり楽園を去り実社会へと突入していきました。

学生時代は同級生の家に泊まる自治医科大学医学部同窓会 医燈会 会報のが当たり前でした。大阪の煖エ君、十津川での相良君、阿波踊りのときの岩花君、スキーを教わったときの村石君、バイクで立ち寄ったときの関戸君、会津旅行の鈴木君、福井の別荘での内田君、中国から帰国したときの尾身君、デュイスブルクのレナーテさん、ワンゲルの大雪山合宿のあと顧問の滝先生の実家にも泊めてもらいました。みなさんありがとうございました。忘れているひとがいたらごめんなさい。いまやこころの鎧が不要な年齢となり誰とも学生時代のように格差にこだわらずに付き合いたいものです。