地域医療Now! 地域医療の現場をつなぐソーシャルマップ

Face.2 宮城県 南三陸町 公立志津川病院 菅野武医師(1/3) 

iPS細胞の登場

2011年(平成23年)3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)。 甚大な被害を受けた宮城県南三陸町にある公立志津川病院の内科医・菅野武先生は、混乱の中で懸命な医療活動に取り組まれました。自治医科大学第28期卒業生でもある菅野先生に、自らの危険を顧みず医療活動を続けた背景と、地域医療の意義などについて話を伺いました。
(聞き手:小児脳神経外科教授 五味 玲)

(2011年9月8日)


「これ以上誰も死なせたくない」と
命の危険が迫る中でも医療活動に従事

—2011年3月11日の東日本大震災発生時の状況を教えてください。

菅野:志津川病院で回診が終わり、医局で一息ついている時でした。本棚が倒れ、隣のデスクのパソコンが火花を散らしている様子に被害の大きさを予感する中、すぐに病院内の照明は消え、非常電源に切り替わりました。津波警報が出たのは、3、4階の入院病棟に駆けつけ、点滴や酸素の供給ができているのを確認してホッとした直後のことでした。
南三陸町は1960年のチリ地震で高さ2.8mの津波に襲われています。その経験から、防災訓練では約2倍の6mの津波を想定し、「3階以上に避難」としていました。しかし今回の揺れは予想以上に大きかったため最上階の5階に避難することにして、すぐに患者さんの搬送を開始しました。その時いた医師は常勤3名、東北大学からの外来応援が2名、歯科医1名。エレベーターは停止していたので、医師、看護師、事務スタッフ総出で、担架や車いす、または背負うという方法で搬送しました。しかし警報から30分ほどで津波は海岸線に到達し、あっという間に茶色の濁流が壁のように押し寄せてきて4階まで飲み込まれてしまい……。目の前で多くの命が失われていく様子に、ただただ呆然とするばかりでした。

—危険な状況の中で、その後も救助を続けたのですか。

菅野先生菅野:はい。第一波のピーク時は4階の天井まで水が来て、避難できた人も危険を感じたのですが、30分ほどすると徐々に引き、4階もひざ丈ぐらいの水位になりました。それで救助に向かいました。危険は承知していましたが、「もうこれ以上誰も死なせたくない」という思いのほうが強かったのです。数名で4階を見に行くと、人が棚の下敷きになっていたり、体の一部だけが窓にかかっていたりと信じられない光景が広がっていました。これは絶望的かとあきらめかけたところ、うめき声が聞こえ、目を凝らすと手を振る人もいたのです。やっとのことで10名ほどの生存者を確認し、5階に搬送しました。

—5階は会議室だったと聞いています。医療設備などはありませんよね。医療の知識も技術もあるのに、道具がなくて何もできない。これは医師としてはつらいですね。

菅野:救急カートも酸素もなく、電気すら通っていない状況の中でできることと言えば、保温に努め、窒息しないように体を横に向けるくらい。寄り添って様子を見ることしかできない自分の無力さを思い知らされました。


Jichi Ika Now!
キャンパスNow! 講義Now! 研究Now! 地域医療Now!
受験生の方へ 受診希望の方へ 臨床研修希望の方へ 在学生・卒業生の方へ 教職員専用
資料請求
CLOSE