スカイラインQ&A(レース編)

こちらはレースにまつわるQ&Aです。


Q1.レースに初めて参戦したスカイラインは?

A1.
 なんと初代スカイラインALSIから、スカイラインはレースに参戦しているのです。このときBLSIという車もプリンス自動車から参戦していました。その記念すべき第1回目のレースは「第1回日本グランプリ」でした。しかし、その結果はトヨタ勢の後塵を拝した
惨敗。初回のレースとはいえ、スカイラインにあるまじき結果に終わってしまったのです。
 実はこれには深い訳(?)があるのです。この第1回日本グランプリが行われた1963年は2代目スカイラインS50シリーズがデビューした年でもありました。同年9月に発売になったS50では当然参戦できず、先代モデルの ALSIでの参戦となってしまったのです。敗因はプリンス自動車のレースに取り組むスタンスにありました。業界の申し入れを忠実に守り、本格的な体制でレースに望まなかったプリンス自動車は他社に見事に出し抜かれてしまったのです。
 ただ、この屈辱が現在のスカイラインのありように影響を与えたことは想像に難くありません。なお、BLSIとは初代グロリアのことです。


Q2.第2回日本グランプリはどうなったの?

A2.
 第1回日本グランプリで惨敗を喫したプリンス自動車は当然の如く、次の日本グランプリに向けて新体制で望みました。その総指揮をスカイライン開発部門の櫻井眞一郎氏がとることになったのです。そこで浮上したのが新型S50の大改造計画でした。なんと、当時グロリアに積まれていた2リッターのG7型ストレート6(105馬力・16.0kg-m)をスカイラインのノーズに押し込んだのです。それに伴いホイールベースは長くなり、ノーズも長い直列6気筒が納まるように伸ばされました。これがスカイラインGT(S54-I)であり、ホモロゲーションを得るために100台が限定生産されました。
 ところが、レース直前になって強力なライバルが出現したのです。このライバルこそポルシェ904GTSであり、スカイラインの出場するクラス(GT-II)の最強のマシンでした。予選ではスカイラインがポールを獲得。決勝では1週余りではありましたが、ポルシェからトップの座を奪いました。結果は総合2位から6位でしたが、このレース後、再びスカイラインGTの再販を望む声が高まり、スカイラインGT-A(S54A)、スカイラインGT-B(S54B)が発売されたのです。


Q3.第2回日本グランプリの真相とは?

A3.
 ポルシェ904GTSとスカイラインGTのデッドヒートは「Q2」でも述べていますが実はこれは深い裏がありました。
 このレース中、先行するポルシェを一度だけスカイラインGTが抜き、一時はトップを快走したのですが、これが仕組まれたことだったのです。ポルシェをドライブする式場とスカイラインをドライブする生沢の二人が仕組んだこととはいえ、17万人の観衆を大興奮させました。
 まるでプロレスみたいな装いがありますが、これがスカイライン神話の始まりとなったことは否めません。この第2回日本グランプリ以降スカイラインはスポーツセダンとしての地位を確立し、
羊の皮をかぶった狼のニックネームが与えられたのです。


Q4.GT-Rはなぜデビューしたか?

A4.
 
サーキットで連銭連勝を飾り、「勝って当然、、負ければニュース」と言われたスカイライン2000GT-Bも、やがて王座を奪われるときがやってきました。そしてその筆頭がトヨタ1600GTでした。レギュレーションの変更などにより苦境に立たされたスカイラインは1968年5月の日本グランプリで予選3番手までをトヨタ勢に占められ、決勝でも1、2フィニッシュを奪われてしまったのです。しかし、プリンス自動車もこのことを黙って見過ごしていたわけではありません。GT-Bが苦境に立たされることをプリンスの開発陣は既に予測していました。そのためにいろいろなエンジンを開発しているのです。その中にプリンス・ワークスのスカイラインGT-Bに1965年から搭載された「GR7Bダッシュ」というエンジンがありました。そしてこのエンジンこそが日本初のプロトタイプレーシングカー・プリンスR380のエンジンGR8型直列6気筒DOHC4バルブユニットのベースとなったのです。しかしスカイラインに積まれたGR7Bダッシュ自体はレギュレーションの変更のために67年にG7型エンジンに戻されています。時を同じくしてプリンスのエンジニアは2000GT-Bの後継ともなる、世界に類をみない2リッター4ドアの高性能スポーティセダンを開発し始めていました。と同時にサーキット仕様のスカイラインも開発していました。これが言うまでもなく初代スカイラインGT-Rだったのです。

 そして1968年7月、C10型スカイラインがデビューしました。はじめにデビューしたのはファミリーユースの1500セダンでした。そして2か月後の9月にS54型と同じようにロングノーズの外観を有し、L20型直列6気筒エンジンを積んだスカイラインのメイン車種ともなる2000GTがデビューしました。肝心のGT-Rはといえば、翌月の10月に開かれた第15回東京モーターショーで発表されました。エンジンはR380に搭載されていたGR8型の流れを汲むものというふれ込みでしたが、ほとんどレーシングエンジンと言っても過言ではありませんでした。なお、GT-Rが正式にデビューしたのはモーターショーから遅れること4か月、1969年2月です。同年5月に開催される69JAFグランプリレースにデビューさせる為のホモロゲーション取得のためには、2月がギリギリの線だったそうです。そしてGT-Rの登場とともにスカイラインは新たな伝説作るべく走り出したのです。


Q5.GT-Rというネーミングはどこから来たの?

A5.
 
「GT-R」のGTは言うまでも無く「グランドツーリング」の略ですが、Rというのは「Racing」のRとも「R380」のRともR380に積まれたエンジン「GR8」のRとも言われています。GT-RはRaceを目的に作られた車輌でありますし、また日本初のプロトタイプレーシングカー・R380の流れを汲むから、その「R」をとったというのです。当時のデビュー広告には「R380のエンジンをそのまま搭載した2000GT-R登場」というキャッチコピーが与えられていました。しかし日産自体このGT-Rというネーミングの課程に関しては正式発表していないのでこれらは一般的に言われているに過ぎません。

 なお、実は「GT-R」のほかに「GT-S」や「GT-V」というのも候補に挙がっていました。R380との結びつきを強調するためにGT-Rというネーミングを採用したことを考えるとやはり上記のことは推測ではなくいずれの意味も含んでいるのでしょう。それにしてもGT-Sだったら良かったのにと思う僕でした。何せ僕の車はGTS25tなので・・・(笑)冗談です。


Q6.初代GT-R(PGC10)は4 Doorというのは本当?

A.6
 
本当です。初代GT-R、型式PGC10は4 Door sedanでした。この初代GT-Rがデビューしたのが1969年2月、同年10月にマイナーチェンジを行い1970年10月には2 Door Hardtopボディを有する2代目GT-R、KPGC10型に移行しました(注:PGC10もKPGC10もスカイラインとしては3代目に相当します)。なお、PGC10型の販売台数は前期型が539台、後期型が293台でした。

 では何故このPGC10からKPGC10に移行したかといえば、それはレースを考えると4 Doorボディが、より不向きだったということにつきます。これはPGC10がサーキットで活躍できなかったというのを意味するのではなく、さらに速いスカイラインに変えたということを意味しています。PGC10自体はレース・デビュー・ウィンを飾りKPGC10に移行するまで連銭連勝街道を突き進み、スカイライン神話を作り上げたマシンでした。そのPGC10にも4 Door故のデメリットがあったのです。レースにとってコンマ1秒の差というのは非常に重要なものです。セダンボディの為、後部座席の居住性の確保というのが空力性能を悪くしていました。空力特性がタイムに影響を与えるのはモータースポーツ界では当たり前のことです。当然クーペボディのほうが空力特性のが良いというのも日産には分かっていました。そのころ他車種においてクーペボディがちょうど流行りだした頃でもあり、そして日産はPGC10の開発と同時クーペモデルの開発も行っていたのです。しかし、クーペモデルは当時のブルーバードと性格が似てしまうこともあって見送られました。そして2 Door ハードトップのKPGC10がデビューしたのです。センターピラーのない2 Door Hardtopはボディ剛性が弱くなってしまいます。Sedanと同等のボディ剛性を確保しようとすればそれは大幅な重量増加を意味しています。そのためにKPGC10はショートホイールベース化されました。PGC10に比し70mm短縮の2570mmでした。なお、この数値は当時としては画期的なコンピュータを駆使し、富士スピードウェイ6kmのコースデータを基に導き出されたものです。


Q7.ハコスカGT-R(PGC10、KPCC10)はレースで何連勝したの?

A7.
 3代目スカイラインにGT-Rが設定されたのが1969年2月、そして同年5月3日、FISCO・第1回JAFグランプリTSクラブマンレースがPGC10がレースでビューした最初の日でした。初戦はワークスドライバーの出場が規制されていたために思わぬ苦戦を強いられました。それは、あの2代目スカイライン2000GTをレースの頂点から引きずりおろしたトヨタ1600GTだったのです。このレースは高橋晴邦の乗る1600 GTが篠原孝道の乗るGT-Rを抑えてゴールしました。しかし、高橋が走行妨害をしたとの判定により1周減算となり篠原のGT-Rが逆転優勝を飾ったのです。なにわともあれ、記念すべきデビューウィンでした。そしてこのあとGT-Rは破竹の連勝街道を突っ走ることとなるのです。

 まずKPGC10がデビューする1970年10月までの間、サーキットを走り回ったPGC10が33連勝。その後2 DoorのKPGC10にGT-Rは変更になりました。

 そして実はここからが問題のところなのです。KPGC10はPGC10時代から通算41連勝を達成しているのは事実なのですが、このあとワークスが出場していないレースにおいてはGT-Rはマツダのロータリー勢に負けているのです。マツダは1971年6月6日FISCO・富士グラン300マイル・TC-Bレースよりカペラ・ロータリークーペを投入してきました。GT-Rは1、2フィニッシュを達成していましたが、このときカペラは3位に食い込んでいたのです。そしてGT-Rのライバルはマツダ・ロータリー勢になっていきました。いずれにせよワークスGT-Rは41連勝後も着々と(?)勝ち続け、49勝に達しました(ワークスの出場していないレースがいくつかあり、41連勝後GT-Rがどこで負けたか分からないため49連勝という表現ではなく49勝となっています)。そしてGT-Rにとって通算50勝目となるべきであったレースが開催されました。それが1971年12月12日にFISCOで行われた富士ツーリスト・トロフィーレースでした。しかし、ワークスGT-Rを駆る高橋国光、都平組がリタイヤ、同じくマツダのワークスカペラもリタイヤとなってしまい、日産もマツダもワークス車が消えてしまったのです。結局勝ったのは加茂進・増田組のマツダのサバンナでした。プライベートチームに勝利をさらわれてしまったのです。ということは「GT-Rは何連勝したのか?」という答えは、ワークスが参戦していたレースで考えれば49連勝にはなります(日本国憲法第9条と一緒で解釈次第ですが・・・笑)。なお、GT-Rの記念すべき通算50勝目が達成されたのは1972年3月20日、FISCO・富士300kmスピードレースでした。土砂降りの雨の降る悪天候の中、高橋国光の駆るGT-Rが2位以下を周回遅れにするという、GT-Rにとっては華々しい50勝目を達成したのです。

 そしてこの通算50勝以後、GT-Rはクラス優勝ということも含めれば、さらに6勝していることになっています。GT-R最後の勝利となったのが1973年11月4日FISCOで開催されたレースでした。このとき総合ではGT-Rは6位から8位を占めました。そしてこの6位のGT-RがCクラスのクラス優勝となったのです。ただし、GT-Rの前には1クラス下のセリカ1600GTが先にチェッカーを受けいていました。そしてそれ以後KPGC10はサーキットの頂点に立つことはありませんでした。

 ただ、GT-Rの連勝記録こそ41連勝以後あやふやになっていますが、これだけの勝利をあげた他の車は日本にはありません。この事実だけを考えてもGT-Rという車がいかにすごい車だったか分かると思います。速い車も時代の流れとともに頂点から降りるのは仕方ありません。全てそれも技術の進歩のなせるワザです。


Q8.ケンメリGT-R(KPGC110)、197台の真相とは?

A8.
 4代目スカイライン・C110型がデビューしてから遅れること4ヶ月、1973年1月に2世代目のGT-R・ KPGC110型がデビューしました(GT-RとしてはPGC10、KPGC10に続き3代目に相当します)。KPGC110は先代GT-R同様、2 door Hardtopボディを有しています。今回のGT-RはC110のHardtop ボディのGTグレードがベースとなっていました。そのボディはベース車に比し、オーバーフェンダー採用による70mmの全幅拡大、5mmの車高ダウンとなっています。そしてこのKPGC110は先代PGC10に比べても明らかに進化していたのです。今でこそ当たり前のように採用されている4輪ディスクブレーキ、スタビライザー、衝撃吸収型モノコック構造など当時の日本車の中でも最新鋭の装備で武装されていました。

 しかし、そんなKPGC110を時代が許さなかったのです。KPGC110のエンジンは先代GT-Rと同じS20型エンジンを搭載していたのですが、このエンジンの燃料は有鉛ハイオクガソリンだったのです(注:今の燃料は、有害物質の少ない無鉛ガソリンです)。折しも時代はオイルショック、1975年の排ガス規制を迎えようとしていました。当時の環境問題の槍玉に自動車があげられるのは必然のことでした。そしてそれは当然KPGC110にも矛先が向けられたのです。自動車メーカーにとってよりクリーンで低燃費のエンジンの開発が急務となったのです。もはやモータースポーツどころではありません。残念なことにKPGC110はデビューからわずか4か月後の1973年5月に生産中止に追い込まれてしまいました。その間製造されたのは僅か197台。内2台はレース関係にまわされたらしいので市場に出回ったのは残りの195台となります。しかし、実際のところ、生産されたのは、もっと多かったとも言われています。ケンメリGT-Rの中古車のシャーシナンバーを見てみると197よりも多いというのです。実際のところは分かりませんが・・・。

 さてこのKPGC110ですが、結局レースには一度も出場することはありませんでした。GT-Rという名を受けながらレースに出ることのなかった不遇の車となったのです。


Q9.スカイラインが1975年排ガス規制以後、本格的にレースに参戦したのはいつから?

A9.
 KPGC110が生産中止以後、スカイラインはレースから離れたところにいました。これは前にも述べていますが、1975年の排ガス規制を端に発し、レース縮小ムードが世の中に蔓延したからです。各自動車会社は低公害、燃費向上を目的とした車作りが急務になったのです。戦う場を失ったスカイラインはどうなったかと言えばそこはスカイライン、5代目スカイラインにターボチャージャーを初搭載するなど、走りのイメージは捨ててはいませんでした。
 そして、再びスカイラインがサーキットに戻る日がやってくるのです。これは、6代目スカイライン・R30がデビューしてからでした。ここに来て、やっとS20エンジン(PGC10、KPGC10、KPGC110に積まれたエンジン)以降耐えて久しかったツインカムエンジン(DOHCエンジン)が復活したのです。このエンジンは
FJ型エンジンと言われ、残念ながら6気筒エンジンではなく4気筒エンジンでした。従ってFJ型エンジンを積んだスカイラインはGTを名乗らず、RSを名乗ったのです。しかし、このエンジンは外観も赤い結晶塗装され、何かが他のスカイラインのエンジンとは違っていたのです。実際、FJ型エンジンはスカイラインの為にのみ開発されたのではなく、日産のレーシングエンジンのベースになるべく開発されたものだったのです。ラリー車から耐久レース車まで幅広いレース活動に使用する為に開発されたのです。グループC用ではターボ装着で実に最大640馬力を発生することを想定された、モンスターエンジンでした。

 スカイラインに搭載されたFJ型エンジンは、始めは自然吸気・出力150馬力/6000回転、最大トルク18.5kg-m/4800回転からターボ装着、そしてインタークーラー装着と段階を踏みながら最終的には、最高出力205馬力/6400回転、最大トルク25.0kg-m/4000回転へと進化しました。RSのターボ車はカタログで「史上最強のスカイライン」と謳われ、国産車で初めてDOHC4バルブエンジンとターボを組み合わせた車だったのです。


Q10.7代目スカイラインGTS-RはどうしてGT-Rを名乗らなかったの?

A10.
 
はっきり言ってしまえばGT-Rを名乗るほどのマシンではなかったからです。


 1985年8月にデビューした7代目スカイラインは初め、4ドアの設定しかありませんでした。遅れること9か月、1986年5月になってスポーツクーペGTSを追加設定したのです。折しも時代はTOYOTA MARK IIを代表するハイソカーブーム。スカイラインもこのライバルMARK IIに対抗すべくスポーツ路線から一転して、豪華装備、5ナンバーサイズぎりぎりの大きさとなったのです。
 現在のスカイライン・R34のエンジンの元になるRB型エンジンは、この7代目スカイラインから搭載されました。その中にRBエンジンの最強ユニットたるRB20DETがありましたが、絶対的な速さはあったもののスポーツ性に乏しいエンジンだったのです。当時の日産はグループAのレースに力を入れ始めていましたが、この7代目スカイラインではその大きなボディといいレーシングカーのベース車輌としては的確な存在ではなかったのです。そこで日産は2ドアクーペのGTSをベースとしたエボリューションモデルの開発を行い、グループAのホモロゲーションを取るべくデビューしたのが
GTS-Rであり、限定販売されたのです。この車のエンジンはRB20DET-Rと言われ、RB20DETが元になっていました。ノーマルタービンから大容量のギャレットT04Eに変え、排気量を2027ccへアップ、等長エキゾーストマニホールド、軽量フライホイールの採用などを行った結果、RB20DETよりも20馬力アップの210馬力/6400回転、最大トルク25kg-m/4800回転までのパワーアップがはかられたのです。グループA仕様車では450馬力までチューンされました。

 しかし、このGTS-Rはレースにおいてチャンピオンを獲得しているものの、圧倒的な強さを見せつけるまでには至りませんでした。当時、このGTS-RがGT-Rの跡を継ぐものだと世間的には考えられていましたが、スカイライン開発者にとってGTS-Rは対処療法的な車でしかなかったのです。市販車としては十分な速さを身にまとっていたのに・・・
他車に対し、圧倒的な速さでレースに勝つ」、これがGT-Rのありようだと当時のスカイライン開発者・櫻井氏は考えていたのです。と同時にR32 GT-Rの開発が既に始まっていたことも、GTS-RがGT-Rを名乗れなかった要因にありました。さらにもう一つ、「GT-RのエンジンはGT-R専用エンジンでなければならない」。これもGT-Rを名乗れなかった要因の一つです。歴代GT-RのエンジンがGT-Rの為に開発された専用エンジンであることは、みなさんもご存じであると思いますが・・・。