自治医科大学医学部同窓会報「研究・論文こぼれ話」 その2 同窓会報第57号(2011年7月1日発行)
「研究者の人格」尾身 茂(自治医科大学卒後指導部長、東京1期)
大学の後輩、産婦人科松原先生から研究について書くよう求められた。私は現在、BIO MEDICALな研究には直接従事していない。研究室で仕事をした時期もあったが、自分自身を研究者と考えたことはないので、体よく断ろうと試みた。しかし 「尾身さんのやってきた感染症対策等も、データを分析して問題の核心をあぶり出し、合理的な解決策を導き出す点で、まさに研究そのものですよ」との松原先生の言葉にほだされて雑感を書くはめになった。
先日、仙台行き新幹線車中で、司馬遼太郎さんと西澤潤一さんとの対談集を読んだ。西澤さんは、東北大学工学部出身で静電誘導トランジスタ等の発明開発で知られている。研究者中の研究者だといえる。西澤氏は「司馬さんは“公が大事だ”とおっしゃっている。私は、“人格が大事だ”ということを言っているんです。というのは、研究者もどんな人格をもっているかということが最後の決め手になるんじゃないかと思っているからです。私が扱った学生なら、1ページの論文を見るだけで彼が何を考えているのか大体分かると思っています。それぐらい、仕事と言うものには人格が現れてくる。」西澤氏は、論文をみれば人格が推定できる、と述べているだけでなく、つまるところ、研究そのものが人格如何で決まってしまうと、述べているわけだ。
確かに、俳優の人格や生き方が、その演技に影響するという。このことはだれでも納得できよう。特に、齢60を過ぎると、仕事だけでなく、普段の生活にも自分が出てしまう事が否応なしに分かってくる。人格を鍛えるという、一見 時代遅れの徳目が、21世紀の研究にも意味を持つとの西澤説は理解しやすい。
しかし、プロの研究者としての確立に懸命な若い、特に「客観的な事象」を扱う研究者は、西澤説に対しどう感じるであろうか?
研究は客観的なデータを基に行う知的営みなので、人格等という“非科学的”な要素の入り込む余地はあり得ないというであろうか? それとも、西澤説に賛成するだろうか?それとも、研究で忙しく老人の議論につきあう暇はないというであろうか?
「研究」と「人格」の関係について、ワインでも片手に若い研究者の方々と議論する機会を楽しみにしています。勿論ワインの準備は暇な老人に任せてください。
(次号は、地域医療学センター長 梶井英治先生の予定です)
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