Vol.27  No.9 2008 


濃密な時間

とちぎ子ども医療センター 小児画像診断部教授  相 原 敏 則

 赤塚不二夫さんが亡くなった。ここ数年は寝たきりであったとのことだし、わたし自身、漫画本を買うことがなくなってもう随分になるから、赤塚漫画を楽しんだのは遙か昔の話である。そうではあるが、「赤塚不二夫逝去」の報に接したとき、胸に迫るものがあった。大袈裟だが、1つの時代の終わり。きっと、わたしの少年期が漫画とともにあったからだと思う。
わたしの生年は1954年。週刊少年マガジン/サンデーの創刊が1959年だから、子ども時代はそのまま週刊漫画誌の勃興期に重なる。初めて買ってもらった漫画本が少年サンデー。小学校2年生(1962年)の、11月くらいの寒くなりかけの頃。確か40円だった。今から考えれば薄い冊子であったと思うが、2年生には読みでがあった。全部読むのに2−3日かかったように思う。週刊誌であるから、掲載されている漫画は、気を持たせつつ次号に続く連載ものが大半であったと思うが、"次号"を親にせがんだ記憶がない。小学校2年生には「連載」という概念が理解できず、それぞれを「一話完結」の物語として読んでいたのかも知れない。
しかし、おもしろかった。おもしろくなければ、買ってもらったときの光景など記憶しているはずがない。隣町の駅の売店で汽車を待つ間、大好きな叔母が、「敏則。好きなモン買っていいよ」と言ってくれたのだ。
赤塚不二夫さんの告別式で森田一義氏(芸名; タモリ)が読んだ弔辞が胸を打つ。森田氏は言う。「われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました」。
わたしも、"第一世代"の末席を汚す。しかし、森田氏よりも8歳年少であるわたしは、"今まで"の作品は読んでいない。わたしは「個」など確立する前に、免疫がないまま、いきなり赤塚ワールドの洗礼を受けたのだ。わたしの精神構造のかなりの部分は、そう、漫画によって形作られたと言える。
本といえばハードカバーの「書物」であった時代。当時漫画に対する大人達の目線は厳しく、冷たかった。そのような大人達の前で公然と漫画本を開くなど、許されることではなかった。もちろん、学校に持って行くことなど、御法度中の御法度。漫画は大人の目を盗んで、隠れて読むものだった。赤塚不二夫さんは、そんなわたしのヒーローだった。
森田氏は続けて言う。「あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません」。
あとで知った話であるが、氏は用意した原稿を読むフリをして、実は"原稿"は白紙であったらしい。それを知って得心した。そうであって初めて、"そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません"に合点がいくのだ。そう、氏はやったのだ。そしてきっと、"この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めて"いた赤塚不二夫さんが、森田氏にだけ聞こえる声で笑ったのだ。
真偽のほどは確かめようがない。しかしこのことを知ったとき、レントゲン写真を前に文献的考察など一切抜きにして直感的に診断名が頭に浮かんだときのような、ワリキレタ感じがした。たぶん、ほんとうだろう。
"大人"の目を盗み密やかに漫画を楽しむ。密室の中の、公には許されない濃密な時間であった。赤塚不二夫さんの死と、その告別式での森田氏の弔辞を知り、あの時の体感が背中の奥から胸に湧き上がってきた。
合掌。


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