Vol.28  No.2 2009


口ほどにものを言う「からだ」の話

保健体育准教授 板井 美

 からだの活動(身体活動=運動)には、いくつかの側面があります。一つには、生活(命)を支えるための運動で、本稿ではこれを自然(nature)的運動と呼ぶこととします。それに対して、人々が構成する社会の中で成り立っている、或いは成り立ってきた運動のことを文化(culture)的運動と呼ぶことにして話を進めてみたいと思います。 
 たとえば、ご飯を食べるという運動。もっと正確に言えば食物を噛み砕いたり飲み込んだりする行為のことは、自然的運動であるといえましょう。また、ご飯を食べることそのものは命を存続させるための自然的運動ですが、何をどのように食べるのかなど、そこに行儀や作法が加わってくると、食べるという行為は文化的運動であるということになります。歯を磨いたり顔を洗ったりという運動は(もしやらなくても命に関わることはあまりないとは思うけれど)生活には一般的に欠かせない運動です。しかし、そのやり方には社会に共有された慣習が絡んで来ることを考えると、文化的運動ということになります。

 歩く、走る、跳ぶ、投げるという運動はどちらに分類したら良いでしょう? 危険から命を守るため走ったり跳んだりして逃げるのは、うーん、自然的運動かな。では、狩猟はどうでしょう。獲物を探し歩き、走って追いかけ石を投げてしとめることは、命を支えて行くための行為ではあるけれども、狩猟の背景には文化が見え隠れしています。次に、歩きながら種を蒔くなど、農耕に関与する運動。これはcultureの訳そのものだから当然、文化的運動ですね。スポーツだとか、踊る、舞うという運動も明らかに文化的運動でしょう。
 このように考えると、人間の運動はほとんどが文化的運動であって、そこには人それぞれの文化的背景が反映されているということになります。逆に言えば、運動(スポーツに限らず、身のこなし方やからだのさばき方も)を見ればその人の素性が判る、と考えることもできるのではないでしょうか。
 よく「食べ方には品格が現れる」などと言いますが、「運動には人が出る」と私には思えるのです。とくに、歩いたり走ったりする姿には人それぞれの個性が凝縮されているように思います。たくさんの言葉を重ねるより、走る姿を一遍眺める方が、よほど深くその人のことがわかるような気がするのです。
 まあ、それは大袈裟としても、コーチやトレーナーは選手の動きを見たりマッサージしたときの感触などから、その日の調子を判断できたりするという話は良く聞きます。あるいは跳躍(あ、申し遅れましたが私は棒高跳びをこよなく愛する者であります)した後、何を考えて跳んでいたか図星に当てられたり言い当てたりなんてこともしょっちゅうあります。この「読み」は、頭で考えるというよりも、肌で感じるといったたぐいのものです。しかしこれは特別な人だけに備わった超能力などでは決してなく、多くの人が獲得可能な能力だと思います。
 「科学」の俎上に乗せるために用いる機器やセンサーが及びもつかない能力が、人には備わっているからだと私は考えています。たとえば筋肉の緊張や筋肉痛、肩こりといったものを、器具を使って科学的に測定、評価しようとすると大変な苦労を必要とします。ところが、私たちは肩モミするだけで、どこがどれだけ凝っているかなんてことは一発で判ってしまいますね。手のひらや指の感触で、筋肉の硬さや張り具合、凝りの範囲や大きさ深さなどを瞬時に読み取り判断しているわけです。
 この他にも、意識するとしないとにかかわらず、様々な信号を私たちのからだは発信しまた感じ取ってもいます。それらは「気配」とか「気」あるいは「オーラ」などと呼ばれるものと同じか否か私には判りませんが、第六感や超能力に頼らずとも、五感を磨くことで十分身につけることができるものと思われます。
 書物による勉強が重要であることは言をまたないところですが、「からだの声」に耳を傾けることの大切さも忘れないでいてほしいと、とくに学生の皆さんにお願いして拙文(あ、節分のシャレだ=編集者註:25日原稿受理)を終わりに致します。


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