Vol.28  No.5 2009


本に囲まれて過ごす時間

さいたま医療センター
心臓血管外科教授 安 達 秀 雄

 

  書店に入ると、いろいろな本が見たくなり、時間(とき)が経つのを忘れてしまう。だから、最近増えた「エキナカ」の本屋さんに入ったときは要注意だ。気になった本のページをめくりはじめると本の中に入り込んでしまい、予定した電車に乗り遅れそうになったことが一度や二度ではない。大宮駅や新宿駅なら予定の電車に乗り遅れても次の電車があるが、東京駅や成田空港ではそうはいかない。予約した新幹線や飛行機にうっかり乗り遅れたら大変だ。
 書店や図書館で本に囲まれて時間を過ごすのが楽しいのは、私にとっては若い時から変わっていない。ずうっと以前、渋谷の予備校に通っていた時は、原宿駅近くの渋谷区立中央図書館にいつも入り浸っていた。予備校の椅子に座っていた時間よりも、図書館の椅子に座って受験とは無関係の書物を読んでいた時間のほうが長かったような気がする。一方、書店に長くいるのは苦手だという人も少なくない。確かに立ちっぱなしだし、目も疲れるから長くいるのには向かないかもしれない。でも今のところ、私にはそれは気にならない。それ以上に新しい様々な情報が本からあふれて出てくるので、その刺激を受けることのほうが楽しいからだ。テレビにも情報があふれているが、それは受け身で一方的だ。作られたシナリオにしたがって番組が進行するので、自分の選択肢がない。書店や図書館で本を見るのはテレビとは大違いだ。自分の気に入ったものだけを見ればいい。不要なものはとばしてしまう。気に入ったものはじっくり読める。情報の有り様(よう)を概観すること、つまり本や雑誌のタイトルやジャンルだけを見ることも可能だ。すべて自分がコントロールできる。すなわち自由だ。私にとって書店や図書館にいることの楽しみは、自分のペースで好きな情報に自由に接することができることだと思う。
 書店や図書館でいつも回る好きなコーナーの一つはノンフィクションやドキュメントだ。人生のなかでの大きな出来事、大変な経験はそれが本になることで他人も追体験することができる。そうした珠玉の本に出会ったときは宝物を探し当てたような気持ちになる。とくに最愛の人との別れや、悲劇は胸を打つ。
 そうした珠玉の本の一つに、血管外科を志していた外科医(医局長)が医局の秘書さんと恋に落ちて結婚したのに、短期間の結婚生活の間に多発性癌が発症し、永遠の別れとなったことを、当の奥様が綴った本があった(「戦士に敬礼!」斎藤奈々著、悠飛社、2006年)。生まれたばかりの息子と最愛の妻を残して、夫は永遠の彼方に旅立ってしまった。私はその本に出会うまで知らなかったが、その外科医や奥様は私のすぐ近くにいた方で、さらに私がいつもお世話になっている血管外科の名誉教授がその教室の責任者であった。短い結婚生活ではあったが、いかに奥様が彼を慕っていたか、また彼が自分の医療、勉学に強い期待と、努力を重ねていたかが淡々と綴られ、強く胸を打たれた。「戦士」とは患者さんを救うために戦っていた夫であり、また自分の癌と戦っていた夫のことでもあった。人の命を大切にしない殺伐とした事件が多いなかで、一人の命がどんなに大切かをひしひしと感じさせてくれる作品であった。日頃余り意識したことはないが、自由に診療や勉学ができることが実は大変な幸せなのだということをあらためて感じさせてくれた。こういう本に出会うと、生きていることや仕事ができることに深く感謝したい気持ちになる。
 書店や図書館で過ごす時間は宝探しの時間であり、素直に自分を見つめ直すことのできる時間でもある。これからもこうした時間が持てる人生でありたいと願っている。


TOPへ戻る