Vol.29  No.7 2010 


文楽観賞の勧め

脳神経外科学教授 渡辺 英寿  


不思議な話と思われるかもしれないが、文楽の話をする。文楽は人形浄瑠璃ともいい、人形劇である。内容は歌舞伎とほぼ重なっている。
歌舞伎が華やかな舞台芸術であるのに比べ、文楽は人間の脳の認知機能を実にうまく使った、ひねりのある、渋い芸術である。今回はその点を論じてみたい。
人形は声を出さないから、だれかがせりふを言わなければならない。
洋式の人形劇なら、声優がいて、伴奏の楽団がいて、せりふや歌、あるいは状況音楽といったもので物語は進行するのであるが、文楽では、せりふと歌は義太夫の太夫が、音楽はその隣に座った太棹が受け持つ。太棹は三味線の一種で文楽特有のもので、長唄の三味線よりずっと大きく力強い低音が出る。場面によっては太夫、太棹それぞれ何人も並ぶ豪華版の舞台もある。
文楽ではせりふや歌を”語る”という。義太夫節である。これは単独でも立派な芸術で、通になると人形は邪魔だという人もいるくらいで、浄瑠璃だけを聞く“素浄瑠璃の会”というものまである。オペラでもアリアだけをコンサートホールで聴くことがあるが、これに似ている。義太夫では1人でいろいろな役を引き受けて語るのであるが、思うにこれは日本独特で、西洋音楽にはないのではないかと思う。その意味では落語と似たところがある。このような1人で行う芸は外国には例を見ないのではないか。
さて、浄瑠璃を語る太夫は、前に立派な漆塗りのがっしりした見台をおいて、語る前に床本(せりふの書いてある本で文字が大きくて分厚い)を恭しく顔の前に押し頂いて語り始めるのが実に格好が良い。待ってました!との声がかかる瞬間である。大夫は腹に木綿の帯を巻いて、小さな椅子を腰の下に当てがい腹に十分力が入る様に整えあくまでも力強く語ってゆく。
隣では太棹がベーん、べべーんと心地よい低音を響かせる。
義太夫の魅力はなんと言っても、その力強さである。
笑うのでも強い武士は、“あははは”とは笑わない。
1分以上”あーーーーーは、あーーーーーは、あーーーはあーーはあーは”と長い”は”の声を出してから、最後に”はーはーはーはー”と重々しく笑うのである。これは初めに聞いたときは非常に不思議な感じがしたが、重々しさを表すまさに浄瑠璃の真骨頂であることが後でわかった。また、大きな拍手がわく場面でもある。
しかし文楽の不自然さといえば、なんといっても、人形遣いが顔をさらして人形を操作する点である。世界中のあらゆる人形劇はいかに操作する手段を隠すかに工夫を凝らしており、目立たない棒や糸で操作するのが常識である。ところが、文楽では堂々と人形遣いが顔まで出すのであるからまったくの驚きである。人形は3人で操作する。人形の足を操作する人、左手だけを操作する人、中央の人形遣いは、体幹と右手と頭を操作する。左右の2人は黒いフードをかぶって黒子であるが、中央の人形遣いは堂々と顔をさらしている。この点も初心者のうちは人形遣いが気になってストーリーが追えないこともあったが、不思議なことに、慣れてくると、人形遣いの顔がまったく気にならなくなる。不思議以外の何ものでもない。これに関しては、寺田寅彦もよほど気になったと見えて、随筆「生ける人形」に考察している。見たいものだけを見ることのできる人間の脳の認知機能の裏をかいた見事な発想といえる。
脳の認知機能まで縦横に応用した文楽は、日本が世界に誇る最も素晴らしい芸術の一つではないかとさえ思う。
いささか敷居の高いと思われがちの文楽であるが、日本では東京の国立劇場と、大阪の国立文楽劇場で文楽の上演が行われている。セリフは河内訛りの古語で慣れないと確かに理解しづらい。しかし、舞台の両袖には縦に長いスクリーンがあり、これにセリフが流れるようになっているので、初心者でも十分理解できる。
日本人と生まれたからには是非この世界に冠たる芸術を味わっていただきたいと思う。

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