Vol.27  No.10 2008 


北京奥林匹克運動会(オリンピック)雑感

中国語講師  阿 部 博 幸

 何かと話題の多かった北京オリンピックが8月24日に幕を閉じた。
 ナチスの宣伝に利用されたベルリン大会の例を引くまでもなく、オリンピックは極めて政治的色彩が強い。『オリンピック憲章』では、オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での競技者間の競争であり、国家間の競争ではない。と謳っている。にもかかわらず、国旗や国歌は当たり前、メダルに報奨金を出す国も少なくない。本音と建前の使い分けは、どうやら日本人の十八番ではなかったようだ。
 私はあまり関心が無かったのだが、マスコミが騒ぎ立てるものだから、ついついテレビを見てしまった。天照大神もこんな気持ちだったのだろうか?
 チベット問題・環境汚染・反日感情など、開幕前の不安材料の多さからすると、「無事に終わった」と言ってよいのかもしれない。大会期間中に会場内で大きな問題も起こらず、北京市内でテロも発生しなかった。テロといえば、1972年に行われたミュンヘン大会の惨事が思い起こされる。テロが無かっただけでも「無事」と言ってよいのだと思う。ミュンヘン大会で起きた事件の顛末については、スピルバーグ監督の『Munich』(2005年)という映画が参考になる。
 競技結果については、中国にとってシナリオ以上だったはずだ。海外から有力選手を引き抜いたりせずに51個の金メダルを獲得した。アメリカの36個、ロシアの23個を抑えて、中国は堂々世界一に輝いた。13億という人口の多さや地の利だけで、ここまでうまくいくものではない。改革開放が始まった当時の最高実力者ケ小平は、「オリンピックは、中国の発展と変化を世界に知らしめるチャンスだ」と語ったという。大部分の中国人は、北京大会の成功を「中華民族の面目躍如、歴史に新たな1ページを刻んだ」と思っているに違いない。
 しかし、選手たちのそうした華々しい活躍の反面、今回のオリンピック報道を通じて、改めて社会体制の違いを感じた人は多かったのではないだろうか。「マスコミに自由な報道を認める」と中国当局は事前に言っていたそうだが、それを鵜呑みにしていた人はどうかしている。自由主義陣営の日本ですら報道で自主規制しているのに、中国が完全な自由を認めるわけがない。「社会主義」の意味が分かっていないとしか言いようがない。
 周知のとおり、中国は「共産主義」という思想を柱とした一党独裁の国家だ。経済活動が以前に比べてかなり自由になったとはいえ、大前提は変わっていない。たとえば、「信教の自由」は認めると言っているが、自由な宗教活動を許しているわけではない。もし、それが政府批判につながっていようものなら、なおさらのことだ。つい数年前も気功の団体が調子に乗って叩き潰されたばかりだ。
 1985年から1987年までの2年間、私は中国の大学で教鞭を執っていた。2年目に重慶の大学で教えていた時、大学にはアメリカ人教師が2人いた。彼女たちは、アメリカのキリスト教系団体から派遣されて英語を教えに来ていたのだが、当然英語の普及のためだけに来ていたのではない。放課後などに学生たちと「神様」についての話をしていたようだ。しかし大学の当局者は、ある日突然外国人教師を集めると、強い口調で釘をさしたのだった。私にはそんなの関係ないとは思いつつも、嫌な気分は帰国まで残った。社会体制の違いを思い知らされた経験だった。
 それは現在でも変わっていないと思われる。中国では、改訂を重ねた辞書の記述にもその時々の政府の認識がよく窺えるのだ。例えば、次のような言葉がおもしろい。
 日本でも、死ぬことを「鬼籍に入る」などと言う。中国で言う「鬼」とは、古代から現代に至るまで「幽霊」や「お化け」のことだ。古来、陰陽道では北東の方角(艮、丑寅)は鬼門とされ、「鬼」が出入りするとした。ところが、日本昔話の絵本などに登場するオニは、怖い顔をして金棒を持っている。また、なぜか角が生えていて、腰には虎の皮を巻いている。これは、おそらく「うしとら」からの連想なのだろう。
 中国には、中国社会科学院言語研究所が編纂した『現代漢語詞典』という現代中国語の辞書がある。この研究所は言語研究の分野で最も権威があり、この辞書は日本で編纂されている中国語の辞書の規範ともなっている。試みにこの辞書で「鬼」を引いてみると、迷信を信じる人が言っている「人が死んだ後の霊魂」(拙訳)という内容の記述がある。また、「霊魂」をこう説明している。
 迷信を信じる人が考えている「人間の肉体に付いて支配者となっているもので、ある種の非物質的なもの」。「霊魂が肉体から離れると、人間は死ぬ」と考えている(拙訳)
 さすがに日本で編纂された中日辞典の記述はあっさりしたもので、どれも「幽霊」とか「霊魂」としか訳していない。共産党は唯物論を革命の哲学としているのだから、霊魂や幽霊は「迷信」であって、存在しないものなのだ。もしかすると、中国で臓器移植が盛んなのは、部品のリサイクル的な感覚なのかもしれない。
 私が暮らしていた 20 年前と比べると、物質的には遥かに豊かになり、庶民の考え方も変化している。それは戦後の日本が経験した以上の変化のようにも思う。しかし、今回のオリンピックを見て、やはり大前提を見失ってはいけないのだと感じた。


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