Vol.28  No.7 2009 


海を渡る空海と研究者

生化学講師  坂 下 英 司

  商売をする人は、「宗教」「政治」「野球」の世間話はしないほうがいいというのをずいぶんと前に聞いたことがある。図らずも相手に敵対感情を持たせてしまう可能性があるためらしい。最初の二つはともかく、メジャーリーグで活躍する選手が多くなり、ワールドベースボールクラッシックで日本が優勝する昨今、野球の話題が今もそうなのかはわからない。僕は幸い商売人ではなく、研究で口を糊する職業についている。だからといって、不特定の人相手に敵対感情をわかせない程度の節操はわきまえているつもりである。しかし、仮説があればそれを検証するというのも研究者としての性。今回はタブーをちょっとだけ破らせていただこうと思う。
 僕の生まれた家は、四国八十八ヶ所第八十番札所讃岐国分寺近くにある。お遍路さんの通り道にあるので、小さい頃はのどの渇きを癒しにお遍路さんが我が家を訪ねてくることもたまにあった。そういうときはたいてい祖母が相手をし、お茶とお菓子で話を聞く。僕もその横にちょんと座って見ず知らずの人の話に耳を傾ける。不治の病、死んだ子の供養、人を殺めた罪滅ぼし、巡礼の目的は様々だ。不謹慎だが、鬼退治などの昔話よりこっちの日常のリアリティのある話が好きだった。
 四国の巡礼者たちが辿っているのは、真言宗開祖・空海の修行の足跡である。空海は、774年讃岐国多度郡屏風浦(現・香川県善通寺市)に生まれる。小さいころから頭のいい子供だったので、叔父の勧めで奈良の大学寮に入学する。そこで官僚養成コースである明経道を専攻するものの、教えられる儒学の内容に疑問を感じるようになり、悩む。やがて「我の習う所は古人の糟粕なり。目前、尚お益なし(大学で教えていることは古人の言葉の残りかすのようなものだ。何の役にもたたない)」と喝破し、大学をドロップアウトする。その後、修験者として畿内や四国で山林修行に励む。24歳のとき『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、儒教、道教、仏教の比較の中で仏教にこそ人間・宇宙の真理を解く鍵あると考え、仏教にのめり込んでいく。ある時、奈良の久米寺の経蔵にて密教の経典『大日経』と出会う。経典にはどうやら追い求めていた真理が記されているようなのだが、当時の日本にはそれを解説できる者がおらず、唐への留学を決意する。同時期に留学した天台宗の開祖・最澄が国費で遣唐使船に乗り込むのに対し、空海は旅費を自ら工面し乗船したとされる。唐の長安では青龍寺の恵果に可愛がられ、20年かけて学ぶ予定を2年でやり遂げ帰国。その後の空海は真言密教を確立しただけではなく、芸術家、土木事業家としても活躍する。
 興味深いのは、この空海の生き方は研究者の人生において今でも十分通用する点にある。空海のように「××学や△△学はもう古い。これからは○○学だ」といってアメリカやヨーロッパに留学して一旗揚げ、帰国し、教授として活躍する研究者が日本の大学に多くいる。そういうバイタリティあふれる研究者によって書かれた成功本の一つをめくってみてほしい。「自己目標を設定せよ」「留学の勧め」「アピール力を身につけよ」「人的ネットワークを増やせ」「研究費を獲得せよ」など、空海が行なってきたのとおおよそ同じ行為が研究者として成功する秘訣だと書かれている。つまり、空海は、海を渡り成功を収めた日本人研究者の先駆的モデルといえる。僕は、科学と宗教は、異なる対象を扱い、お互い干渉しないかぎり棲み分け可能なものとして捉えている。そういう意味では、宗教家の空海を研究者と同列に扱うことなど一線を踏み越えてしまっているかもしれない。しかし、どちらも真理を追究する人間である。そうだとすれば、そのノウハウの類似性を指摘しても実のところ驚くことではない。ただ、僕が感心するのは、それが1200年も昔から変わっていないということだ。それともうひとつ。これで大学の教授が「説教」くさくなる説明がつくことだ。

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