Vol.28  No.8 2009 


忘れられない夏の風景

社会学講師  青 山 泰 子

  今からちょうど10年前の1999年8月。この年の夏、たった3日間の経験の中で、今なお鮮明に覚えている風景がある。
 当時、社会学を学ぶ大学院生だった私は、フィールドワークを主体として住民への聞き取り調査や訪問面接調査を行う調査員として、さまざまな地域を訪問する機会があった。
 その夏、大学の学部学生、大学院生、教員合わせて20名ほどのメンバーが、北海道のある地域で3日間泊り込みの調査を行った。地域福祉に関する意識調査で、調査員にはそれぞれ担当の地区があり、調査票を携えて対象者宅をまわる訪問面接調査であった。記録に残る猛暑の日々だった。
 さて私の担当は、広大な酪農地帯だった。北海道外から来た観光客なら誰もが一度は見たいと思うような風景である。しかし「綺麗な所が担当なんて羨ましい!」などと言うのは、調査経験のない学生だけだろう。というのも訪問面接調査は、文字通り戸別に訪問して行われる。したがって、広大な土地の中に点在する家々の中から、調査対象者宅を特定するのがまず一苦労なのである。ようやくたどり着いても、調査対象者が広大な畑のどこにいるのかわからず、時間を変えて何度も訪問を試みなければならないこともある。そんな土地を、日々歩き回っていた。
 宿泊先からかなり離れた地区で、そこまでは車で移動したのだが、中古車のクーラーは壊れ、スイッチを入れると熱風しか出てこない悲惨な状態で、時には道なき道をつき進み、迷子になり、最終的には車を降りて探し回る。調査先でいただいた紫蘇の葉が後部座席にどっさり置かれ、気がつけば2、3匹の大きな蜂が車内を飛び回り、慌てて車を飛び出すこともあった。その夏が強烈に記憶にあるのは、あまりに暑く、あまりに美しく、生活者の現実を全身で学んだ日々であったからかもしれない。
 調査先では様々な人に出会う。その日最後の訪問先として伺った先は、大きなビート畑の前にポツンと立つ、新築のよく目立つお宅であった。1日の終わりで、私は既に汗まみれ土まみれ、おまけに日に焼けて悲惨な状態であった。チャイムを鳴らしてドアの奥から飛び出した凶暴な犬にうろたえて助けを求めた。出てきた若い女性は、シャワーを浴びた直後の様子で、真っ白いバスローブを身にまとい、煙草をくわえながらゆっくりと出てきた。その女性に相対したときの風景。空と草木と畑とバスローブの鮮やかな色のコントラスト。違和感を覚えたのは、色のせいだけではなかったろう。
 忘れられない風景がある。ぜひ想像していただきたい。
 真っ青な空と照りつける太陽と広大な畑と牧場。その画の中で、一本の木陰で立ったままトマトをほおばる人間の構図。遠目で見れば夏の北海道を象徴するような美しい風景かもしれない。しかし現実は、堆肥の強烈な匂いの中で、他に日陰がないから選択の余地無く木陰に避難し、蜂への警戒心を怠らず、足元のカエルに時折目をやりながら、必死で栄養を補給する風景なのである。しかしそのときの冷えたトマトのおいしさは、今でも忘れられない。こんなにおいしいトマトが世の中にあるのかと思うほどだった。それはおそらく、私にとっては単なるトマトではなかったからだろうと思う。そのトマトは、猛暑の中で調査に協力してくれた方と私をつないだ証であり、私に対する気遣いの証でもあり、調査員としての喜びを味わえる瞬間でもあったのである。
 傍目にはひたすら美しい風景の中で、しっかり営まれる生活の現実を知りたい。学問を志す者の営みの地道さと忍耐力と必要な謙虚さを一気に学んだような日々であった。
 これまで数々の調査に関わってきた。どれもこれも印象的で、いつも忘れられない出来事がそこにはある。「無駄になる経験は一つもない」これは、確信をもって私が言う言葉の一つである。

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