Vol.29  No.6 2010 


緑に想う

看護学部助教 島田 裕子  

緑がまぶしい、美しい季節がまたやってきた。
 通勤での私のひそかな楽しみは、とちぎ子ども医療センターの周りの植え込みの季節ごとの変化だ。美しさと可愛らしさ、デザインの素晴らしさに心を奪われるのだが、春は特に美しく、設計した方や日頃手入れをされている方々に改めて尊敬の念を抱く。
 今年の春は天候が不順で、気温の低い日が多かった。5月も下旬に入り、陽射しにやっと夏らしさが感じられるようになってきた。気がつくと、自宅の庭の芝生に混じって生えていた雑草の丈が少しずつ目立ち始め、休日は草むしりや不規則に延びた樹木の剪定に取り組むことになる。
 子供の頃から植木いじりの好きな両親の影響で、知らず知らずのうちに樹木の名前や草花の名前を覚えた。学問に関することも、こんな風に無意識に自然に覚えられるといいのに、とさえ思う位に育った環境の影響というものは大きいと改めて思う。
 私の実家の庭は、高齢の父が体力の衰えを感じながらも、美しく根気よく手入れしている。両親と一緒に住んでいた頃は改めて意識して見たことはなかったが、結婚し自分で家を建て庭造りに取り組み始めたちょうどその頃、実家に帰って庭を見たとき、様々な樹木や花々が計算されたように配置され、美しく刈られ、家の中からも、外から訪れる人にも美しく見えるように配慮されていることに気づき、驚いた。
 私の父は元サラリーマンで、植木職人の経験はないが、自分なりに考え図面を書いて少しずつ年月をかけて庭造りをしていったのである。一方で、剪定し切り落とされた枝の片付けや、樹木の根本に生える雑草むしりは母の仕事であった。この二人の共同作業によって、実家の庭は美しく保たれていたのだ、と改めて理解したのであった。この庭は両親の二人三脚の歩みの象徴なのであった。
 父は庭木の剪定が終わると、床屋に言った孫の頭を見るように、満足そうにまぶしそうに庭を眺めながらタバコを一服するのであった。私はこの庭を大切に守っていく、と自分の心の中で勝手に両親に誓っている。
 現在、実家の家の窓からは、しゃくなげやつつじが色とりどりに咲き、松の緑の向こうには田植えのために水の張られた田んぼが見える。この庭はこの季節が一番美しいと思う。
 一方、私が現在住んでいる家の庭は、実家の庭とは程遠い現状にある。新築した当時、私は緑に埋もれるように暮らしたいと強く願い、庭造りの本を見ては苗木を買い、芝生を敷き、駐車スペースに沿って宿根草の苗を植えた。出産したばかりで思うように外出できない時も、子供が寝ている隙を見計らっては草むしりをしたり、樹木の苗を植え替えてみたり、無心に土いじりに没頭していた時期もあった。
 当初、庭の土壌は養分がなく、ミミズ一匹住めないようなひどい粘土質であったが、肥料を入れたり、コンポストを庭に置いてみたり、庭いじりをしているうちにミミズだけでなく、モグラも住める状態になった。
 今のこの時期の贅沢は、家の中から窓越しに緑や花々を眺めながら朝食を食べられることであり、膨らみかけている白い夏椿の開花が待ち遠しい。平日なかなか土いじりができない私にとって、窓から見える庭の緑は大きな癒しである。
 思い起こせば、私が学生時代に図書館でよく利用したのは、窓際の席であった。今にな
って思えば、窓から外の景色、本学の場合「緑」といえば「赤松」であるが、自分の現在いる場所が自然にちゃんと繋がっているということを無意識のうちに確認し、安心したかったのかもしれない。学生時代、図書館を利用する時は、いつも不安を抱えていることが多かった。課題でレポートを書く時、実習を控えた時、定期試験や国家試験の勉強など、次から次に押し寄せてくるこの波を乗り越えられるのか、そんな気持ちに襲われる時、図書館の窓際の席は私の特等席であった。私にとって緑はなくてはならないものらしい。
 私が学生時代の頃に比べると、本学の緑は激減している。患者さんや家族の方々が病院に訪れた時、窓から外の景色を眺めた時に、癒しとなるような緑がいつもそこにあることを強く願う。

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