自治医科大学医学部同窓会報「研究・論文こぼれ話」その14 同窓会報第69号(2014年7月1日発行)




「人生・研究万事塞翁が馬」、だから面白い!

    Tohyama  遠山信幸(埼玉県6期) 自治医科大学附属さいたま医療センター
                        医療安全管理室長 総合医学講座Ⅱ(一般・消化器外科)

 結果には必ずそうなる原因がある。たまたま起こったことにしても、偶然起こったことにしても、そうなるにはそうなるだけの原因があるのである。医療安全が今の私の専門であるが、根本分析Root Cause Analysis(RCA)はそうして事故の原因をとことん探っていく。
 私は自治医大6期卒業生である。埼玉県出身(今は出身高校か自宅のどちらかが埼玉県内であれば埼玉での受験可能となるが、当時は出身高校のみで決まっていた。ちなみに私は生まれが川口で、高校は浦和。)のため、卒業後は埼玉県に戻り、義務年限の9年間を果たすことになっていた。臨床医として、外科医として、地元埼玉の地域医療に貢献することが夢であり、当時出来たばかりの自治医大を選択した理由もそこにあった。
 さいたま赤十字病院で後期研修中(7年目)のある晩、自宅に県庁の担当者から電話があった。「大宮に新しく自治医大の医療センターができるので、大学院に行きませんか?」とのお誘いである。私は耳を疑った。義務年限はまだ2年以上残っている。日赤の外科部長からは、「義務明け後はうちに来い」と誘われていた。大学からは特に話は聞いていない。「本当?いいの?」
 県庁がいいと言っている(行けと言っている)。両親や妻にも相談し、せっかくのチャンスだからと背中を押してもらった。それに、母校に対する愛情も当時は強かった(今でも)。卒業生(県人会)の集まりでもお話しして許可も得た。寝耳に水、瓢箪から駒。一度しかない人生、経済的には大変かもしれないが、いろいろなことを経験するのもいいかなと考え、県庁を退職し、1990年4月当時まだ出来たばかりの当センター総合医学講座Ⅱの大学院生(第1号)となった。
 来てみてびっくりした。何もない。人もいない。物もない。蛍光灯もない。研究のケの字もない。当たり前である。開院してまだ4カ月。私も困ったが、当時の外科のM教授や医局長も困ったことだろう。結局1年目は大学院生として飯能市立病院への派遣となった。これでは義務年限消化と同じである。市立病院とはいえ、常勤医は内科2名で外科医の私(しかも非常勤扱い)を入れても医師は3名しかいなかった。それでも1年間の地域は楽しかったし、それはそれで勉強にもなった。
 そうこうするうち、新潟県出身の本校卒業生(5期生)である小林英司先生からお声がかかった。新潟大学で基礎研究のベースがある先生は、義務明け後、M教授のもと当センターに来られ、本格的な研究体制を立ち上げることになった。とはいえ、全くの0からのスタートである。小林先生と私は東京の世田谷にあった国立小児医療研究センターに通い、実験外科研究室の鎌田直司先生のもと、移植免疫の研究をスタートさせた。鎌田先生は世界で初めてラットの同種間肝移植を成功し、免疫抑制剤なしで生着する現象を報告された方である。私は小林先生の御指導のもと、テーマとして小腸移植を選んだ。短腸症候群に対する唯一根治的な治療が小腸移植であるが、小腸は最も拒絶反応の強い臓器であり、そのコントロールがなされないと生着が難しい。まずはCuff techniqueという簡便な手技によるラット血管再建モデルを開発し、何百匹というラットの小腸移植を行った。さいたま日赤時代に付き合いのあった某内視鏡メーカーから細径内視鏡を拝借し、同種移植小腸の拒絶過程を内視鏡と病理検査で経時的に観察検討した。結果は予測通りのものであり、研究開始から半年ほどで成果が出、論文投稿→即採択となった。当時、移植小腸の内視鏡観察の報告はなく、私の報告が世界初となった。後日、この研究で運よく消化器病学会賞もいただいた。
 その後、肝臓小腸同時移植の研究(肝臓を先行して移植しておくと小腸が拒絶されない)やGVHDの研究などを行ったが、鎌田先生と小林先生がオーストラリア・ブリスベーンのクイーンズランド医学研究所QIMRに移られたため、私も1992年12月から1993年12月まで留学の機会をいただいた。家族とともに異文化交流を十分に体験できたが、研究はいかにも南国的であり、のんびりとした環境であった(研究は寒いところに限る?)。
 帰国後1994年に大学院を修了し、臨床外科医として当センターで勤務させていただくことになり、研究からは徐々に離れて行った。外科ひいては当センターの発展のため、地域のため、がんばった(つもりである)。岩手県の藤沢町民病院(現一ノ関国保藤沢病院)や飯能市立病院(現在は廃院)にも再出向した。いろいろな人と出会い、いろいろなことを経験させていただいた。2005年から始めた医療安全の仕事も、今やすっかり本職となり、2013年には医療安全管理室の教授を拝命した。
 人生の転機はいろいろなことがきっかけで起こる。私にとってはひょんなことから研究生活の機会が舞い込み、それがきっかけでその後の当センター勤務となったが、「人生万事塞翁が馬」。必ずしも順調なことばかりではなく、挫折や失敗もあったが、それも人生である。
 果たしてラットの臓器移植の経験は今も役立っているのであろうか?きっと役に立っているに違いない。研究の重要さ、大変さも勿論よくわかっているつもりである。
(本文章は自治医科大学附属さいたま医療センター「研究だより」第39号より一部改編)

(次号は、自治医科大学さいたま医療センター総合医学講座1(消化器内科)の松本吏弘先生(長崎県22期)の予定です)

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