自治医科大学医学部同窓会報「研究・論文こぼれ話」その17 同窓会報第71号(2015年4月15日発行)




テクスト解釈としての/を超える哲学

inagaki 稲垣 諭(自治医科大学 哲学)

なぜテクストか  
 自治医科大学に赴任して、早二年が過ぎようとしています。その間、CRSTの先生方による論文支援の実際を、メールを通して経験させていただいています。そんな先生方のバイタリティにはとても敵わず、恐縮するばかりですが、以下では、哲学研究の一側面についてお話しできればと考えております。
今もさほど変わってはいないと思いますが、私が大学院を通して教授された哲学研究とは、ある哲学者が記述したテクストの解釈を原文で緻密に行うことを意味しています。その哲学者が何を考え、どのような問いを立て、それにどう取り組んだのか。それらをテクストを通して明らかにするのです。
私の研究対象は、19世紀終わりから20世紀初頭にかけて「現象学(Phenomenology)」という学問を創設したドイツ哲学者E.フッサール(E.Husserl)でしたので、私の大学院時代は、彼が書き残したテクストの読解を継続的に行うことに捧げられました。彼が残した遺稿のすべてはいまだ刊行されておらず、テクスト解釈の営みは今なお続けられています。
医学を含む自然科学系の先生方からしてみれば、「テクストを解釈して何が出てくるのか、大切なのは客観的な事実の確認ではないか」というお叱りの声が聞こえてきそうです。にもかかわらず、哲学研究にとって大切なのは、何よりもテクストなのです。
それはなぜか。 テクストに定位することの大切さは、たとえば政治や歴史において顕著になります。誰かによってある時点に書かれたもの、発言されたことが、現代の私たちに働きかけ、大きな影響力を与え、場合によっては制約となることさえあります。最近では、従軍慰安婦問題についての河野談話や村山談話を、安倍首相がどのように受け止めていくのか、世界各国が見守っている状況があります。これらはすべてテクストです。
私たち日本人の人権を守っている憲法も、大学の規定や内規もテクストです。世界人口の多くを占めるキリスト教やユダヤ教、仏教、イスラム教といった教義が書かれている経典もテクストです。これらの内容に、自然科学的なエビデンスを求めてみてもほとんど意味がありません。それは、医学の歴史である医学史のエビデンスを確定できないことと同様です。
テクストに定位しながら研究を蓄積することとは、近視眼的には見えない歴史を積み上げることであり、積み上げられた歴史の中でしか明らかにならないことを発掘することでもあります。
私が専門にするフッサールという哲学者は、晩年の著書『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936)の中で、「そもそも学問は客観的な事実からスタートすることができるのか」、かりにそれが可能だとして「その客観性は、誰が、いつ、どのようにして正当化してきたものなのか」といった問いを、その根元から解き明かす必要があると主張しました。つまり、「客観的事実の確認」という学問の姿勢そのものが、歴史の展開に応じて産み出されてきた社会的産物のひとつであることを彼は告発しようとしたのです。
 フッサールが伝えたかったことは、客観性への欲望、その要請というものが、そのつどの時代を生きる人間の「生活世界(Lebenswelt)」に由来する価値観に支えられているということでした。したがって、客観性そのものでさえ時代に応じて振幅し、揺れ動くものとならざるをえないということです。
現在における客観的知識とは、「専門知識を有する集団内において、専門的操作を介して確実であると認定され、共有される知識」ということになると思います。このように客観性にはすでに多くの留保と条件が付いています。逆からいえば、ある領域の客観性だけを盾にして知識を正当化することには、いつでも限界が伴うということでもあります。
実は、科学の積極性は、この限界を含み込んでいるということにこそあります。つまり、未来における訂正、修正、改良にかかわる反証の余地を開いたままにしておくことができるということです。これが科学の進歩の原動力に他ならず、反証主義ということにかけられた思いです。
おそらく現在の医師国家試験の問題には、30年後には通用しなくなるもの、補足が必要なもの等が大量に含まれています。ある時代に正しいと思われていた知識が覆され、より良いものに置き換えられていくことが、科学の健全性を保証します。1946年から実施されてきた医師国家試験というテクストを分析してみると、いろいろと面白いことが発見できるのではないかと思います。
テクストに重点を置くということは、人間が知らずに創り上げてきた文化の営みを、それとして浮かび上がらせるということでもあるのです。

テクスト解釈という研究  
 哲学研究者の業績の多くは、上述したように、哲学者のテクスト解釈が基本となって組み立てられています。そのため実験的にデータを取ることはできず、かつ共著、共同研究を行うことにも極めて不向きです(フランスの哲学者のドゥルーズと精神科医のガタリによる共著は例外のひとつですが)。
さらには、テクスト解釈を行う論文自体が一個の哲学作品になることもあり、その場合には、「誰がその論文を書いたのか」、その人の「文章スタイル」がとても大切になります。たとえばプラトンは対話篇を、ニーチェはアフォリズムを、それぞれ固有なスタイルとして作り上げてきました。そのためファースト、セカンド、以下といった著者が並ぶことも、哲学研究ではほぼありえません。この場合、哲学研究は、小説家や詩人の営みに限りなく近くなるからです。
それに対して自然科学系の論文では、誰もが等しく理解でき、共有できるように、冗長であいまいな表現や「私」といった一人称表現を避け、事実を的確に伝える三人称的文章スタイルが取られています。つまり、誰が実験のアイデアを思いつき、誰がピペットで試薬を分注し、誰がそれについて書き、誰がどんな感慨をもったのかは重要ではなく、むしろ論述を通してどのような事実と成果が明記されているのかだけに力点が置かれています。  
 この辺りが、文系の哲学研究と自然科学系の研究との大きな違いだと思われますし、論文数を競い、業績を競い合ううえでも大きく異なる研究文化だと思われます。この研究文化の違いは、どちらか一方に還元すればよいという話ではないと私は思っています。

テクストを読んで超える  
 哲学研究におけるテクストの重要視とテクスト研究の在り方についてお話ししましたので、最後に、現在の私の研究の方向性を示す事例として、私の研究対象であるフッサールのテクストを実際に取り上げてみたいと思います。
彼は1904年にドイツのゲッチンゲン大学で行った講義以降、どのようにして人間の意識が時間の感覚を統合しているのかをずっと考え続けていました。それが「時間意識」の問題と呼ばれます。
この講義の内容は、彼の弟子でもあったM.ハイデガーによって1928年に編纂されていますが、ハイデガーの主著のタイトルも『存在と時間』(1927)であることから、時間の問題は現象学という哲学にとって避けては通れない問題だったようです。
私たちの意識には刻一刻と様々な情報が飛び込んできては流れ去っていきます。音楽はそのいい例です。私たちはメロディを聞くことができますが、これはとても不思議なことです。というのも、ある単音が聞こえ、その次の単音が聞こえるときには、以前の音はすでに物理的には消滅しているため、現在を点のような瞬間的連続として想定してしまうと、ただ単音だけが聞こえつづけるはずなのに、私たちはすでにない音も含めたメロディという音の関係性を知覚することができるからです。フッサールはこのことを、連続性の統一という語を用いて以下のように記述しています。

„Von dem Ablaufsphänomen wissen wir, daß es eine Kontinuität steter Wandlungen ist, die eine untrennbare Einheit bildet, untrennbar in Strecken, die für sich sein könnten, in Punkte der Kontinuität. Die Stücke, die wir abstraktiv herausheben, können nur im ganzen Ablauf sein, und ebenso die Phasen, die Punkte der Ablaufskontinuität. Auch können wir evidentermaßen von dieser Kontinuität sagen, daß sie in gewisser Weise ihrer Form nach unwandelbar ist“(Husserliana X, S.27).

「〔物事の〕経過現象についてわれわれが理解しているのは、それが絶えざる変転の連続であるということだ。その連続は不可分の統一を形成しており、それ自体で存在しているかのようないくつかの断片に分割することも、連続の諸点へと分割することもできない。私たちが抽出する断片は、経過全体の中でのみ存在できるのであり、経過連続の諸位相や諸点についても同様である。さらにこの連続について明証をもって述べうることとは、その連続が、何らかの仕方でその形式を変えることはないということだ」。  

 上がドイツ語原文で、下が拙訳になります。フッサールのドイツ語はかなりの悪文といわれており、ドイツ留学中に一般のドイツ人に見せたところ「彼は頭がおかしい(er ist verrückt)」という返答を何度ももらったことがあります。ただ引用箇所は、それでも分かりやすいほうです。
この中でフッサールは、経過という意識現象がどのような特徴をもっているのかを記述しようとしています。1)変転の連続が統一として成立していること、2)それを分割することはできないこと、3)分割している時点ですでに連続性が前提されていること、しかも、4)その連続の形式そのものは変化しないことが指摘されています。
この形式とは、事物やメロディを視覚的、聴覚的に知覚するさいの知覚の形式でもあります。物事が連続的に持続しているように知覚されるための形式といってもよいかもしれません。これがどのようにして成立しているのかを分析しようとしています。
現在の認知科学の流れからいえば、知覚や注意、記憶(working memory)の問題がここに関連しています。さらに脳科学的には、どの神経ユニットが責任部位になるのかが問われます。にもかかわらず、現在においてもなお、この意識の経過現象がどのような仕組みで成立しているのかはほとんど分かっていません。
フッサールはこの形式を「幅のある現在」として特徴づけますが、この形式が一体何なのか、それは本当に変化することがないのか、この形式と、私たちの意識という現象の間にはどのような関係があるのか、100年以上たってもほとんど分かってはいないのです。
おそらくこの形式が壊れてしまえば、私たちは対象を持続的に知覚することも、会話をすることもできなくなります。客観性そのものが崩れ去ります。
そしてここに、現在私が、中枢神経系のリハビリテーションの現場で患者さんの事例を収集し、臨床現場への立ち合いを通して研究を進めている理由があります。 中枢神経系疾患の臨床現場では、この時間意識が健常とは異なる状態へと変異してしまっている事例がたくさんあります。うまく知覚が成立せず、連続を連続として感じ取れない患者さんがいます。そうした様々な病理を通して、これまでの自分の研究の裏付け、修正、発見を行うことができれば、哲学研究はテクスト研究を超えて、共同研究の道を拓くことにもなると私は考えています。テクスト研究と臨床がつながる場をこのように作り出すことは、フッサールも考えてはいなかったことですが、それによって100年前を生きた哲学者の思考が、この現代において何度も蘇ることにもなるのです。

(次号は、自治医科大学医動物学の松岡裕之先生の予定です)

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