藤井7冠がソフトと同じ手を指すのは、もちろんソフトで研究しており、その手を覚えているということがあると思います。プロ棋士の記憶力は桁外れのようですから。ただし、手の流れの全てを記憶しているということは流石にないでしょう。分岐が多いため情報量が膨大になりすぎます。本物のコンピューターなら容易にできることでも、生身の人間には限界があります。おそらく、最善手が「どうして最善手たりえるのか」を深く考えて自分で納得できる理由づけをしているのだと思います。人間の「理解」というものは元々そういうものだと思います。
しかし将棋や囲碁において絶対的にコンピューターが人間より優れている現在、「真実」はコンピューターの方にあります(時間制限を色々つけたり、コンピューターの計算能力を相当落とせば人が勝つこともあるでしょうが、あまり本質的な話ではありません)。人間が内容を理解できるかどうかは別の話です。
医療の世界にも当然AIが今後ますます入ってくるでしょう。特に画像の解釈については期待が持てます。コンピューターは疲れることを知りませんので人間のようなタイプの見落としは少なくなるでしょう。ただし、将棋や碁のように絶対的なルールがあるわけではないので、流石のdeep learningでも難易度は格段に上がります。トップレベルの放射線科医を越えるということがあるのかどうか?(果たして越えたことの判定は誰ができるのか?)興味深いです。しかし医療の負荷が増えているのも事実ですからAIの参入は不可避でしょう。
一方で「じゃあ誰が読影結果の責任を取るんだ」という話も当然ついて回ります。診断が間違っている時に、「AIのせいなので、人間は責任を取りません」ということにはならないでしょう。最終的な責任はやはり人間が被らなくてはいけないと思います。・・・本当に医療の負荷軽減につながるのか?微妙だと思います。内視鏡の画像で「もしかして悪性かもしれない」という病変を全部生検していたらかえって大変になるかもしれませんね。そしてその負担は最終的には病理部に回ることになるのかもしれません。病理診断でももちろんAIの助けは得られるでしょうが、最終責任は病理医ということになるでしょう。
ちょっと思い出したのが学生の頃、病理の先生が紹介した小説「最後の診断」(アーサー・ヘイリー)です。タイトルの訳語も秀逸ですね!これはあまり明るい話ではありませんでしたが、病理の独特の雰囲気を感じさせるものでした。病理の先生が紹介したということはおそらく小説の雰囲気は現実の病理部にかなり近かったのではないかと思います。「最後の診断」を下す病理医の抱える責任の重さがよく表現されているので医学生は(医学生でなくても)一読の価値はあると思います。
話が逸れてしまいましたが、真実を知る手段は確実に増えています。そのことは明らかに良いことなのですが、一方でフェイク・ニュースに惑わされないことも難しくなっています(AIが作った”写真”など、ますます本物と見分けがつきにくくなっています)。AIに欺かれないことも大事ですし、真実をうのみにするのではなく「理解」しようと努めることも大事だと思います。何かを「理解できた」時の喜びはとても大きなものがあります。かのアルキメデスも風呂の水位が自分の体積分だけ上昇したことに気づいた時に「エウレーカ!」と叫んで裸で街を走り回ったそうですが、そのような経験はいくらでもしたいものです(もちろん逸話の前半部分の話です)。AIも上手く「利用」できればよいと思います。
佐藤 浩二郎
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