客員研究員・藤平昌寿が「リベラルアーツカフェ116・117」を開催しました(2022/12/17・2023/1/29)

報告

倫理学研究室客員研究員・藤平昌寿が代表を務めている「リベラルアーツとちぎ」と倫理学研究室との共催による、「リベラルアーツカフェ Vol.116・117 <私>はコピーできるのか?:デジタル・クローンについて考える」を2回シリーズにて開催いたしました。

リベラルアーツカフェは毎月1回、サイエンスからアートまで、文理を問わず様々な分野についてゲストを招き、話題提供や対話・体験などを行っています。倫理学研究室ではデジタル・クローンについての勉強会に参画していることもあり、今回デジタル・クローンについての哲学対話を企画することとなりました。

哲学対話の特性上、対面開催とリモート開催とでは対話の内容や指向性などに差異が生じやすいこともあり、敢えて同じテーマについて対面とリモートでの2回開催を当初想定しておりましたが、新型コロナウイルスの影響がまだ心配される時期でもあったため、2回ともリモート開催といたしました。

初回は2022/12/17にリモート開催いたしました。初回はデジタル・クローンについての範囲を敢えて限定せず、参加者それぞれが想像する「デジタル・クローン感」に基づいた対話を進めていきました。はじめはどちらかというとロボットのような、現実世界に存在しそうなクローンの話から始まりました。昔のアニメで言うとパーマンのコピーロボットのようなイメージでしょうか。「コピーがあったら便利」といったような現実的な話や、「どちらが”本物”なのか?」「どちらも”本体”では?」「もし事件が起こったら、どちらが裁かれるのか?」といったような倫理的な話題にも展開していきました。これらは「メタバースで自分のアバターが勝手にモノの売買や金銭のやり取りをしてしまったら?」というような、比較的近い将来、現実問題となり得そうな話題とも云えるでしょう。

次に出てきた疑問としては「コピーとは何?」という問いでした。「脳のコピーでは?」「自分の子どもは自分のコピー?」「そもそも同期して行動するのか、別人格として行動するのか?」など、参加者それぞれのクローンやコピーに対してのイメージや前提などの違いが現れます。また、作家・東野圭吾さんの「分身」という作品を紹介する方が居られたりするところを見ると、前述のパーマンのコピーロボットなどと同様、既存の小説やアニメなど、個々が過去に触れてきた様々な「作品」から受けるイメージが、各々の「デジタル・クローン感」形成の一端を担っているのかもしれない、などとも感じました。

更にはクローンについての「自我や自覚」「意識」「五感」などの話題にも展開していき、「言葉が無くても伝わる存在なのか?」という問いが出てきます。これに対し「脳が一緒なのか?」「むしろ第三者では?」という、前出したような疑問が再び出てきます。(経験上、哲学対話ではよくあることで、既出の問いや発想・感想などに何度も立ち返っていくことがあります。)「言葉無しで伝わる存在」に対して、「そもそも自分と自分が対話して生産的なのか?」という問いが投げかけられます。他の参加者からは「例えば、哲学者は自分と対話するのでは?」という答えが返ってきます。自分の中にある”自分”という存在は、デジタル・クローンに通ずる所も多いのかもしれません。

対話の最後の方では「そもそもデジタル・クローンは社会倫理的にどうなの?」という問いも発せられます。ミラーワールドやメタバースといった現実世界のパラレルワールドに自分の分身を置くことによる自他への影響などのほか、「犯罪者のクローンはOKなのか?」「例えば、ノーベル賞受賞者のクローンは増やした方が良いのか?」といった、いわゆるデジタル空間上での話に収束し始めます。「技術の進歩は止められない」といった意見も出るように、デジタル空間内に”自分”を自由に置ける日が近づきつつあることも示唆しているのだとも感じます。

初回は、デジタル・クローンの範囲を限定しなかったことや、参加者がやや多めだったこともあり、時間の大半が対話の「発散」に費やされました。時間も少々短く、やや消化不良感もあったようにも感じられたため、次の2回目ははじめから「デジタル空間内のクローン」という限定を付した上での思考・対話実践とすることをお伝えし、初回の幕を閉じました。

2回目は年が明けて2023/1/29に、やはりリモートで開催しました。前回の予告通り、デジタル空間内に限定したクローンについての対話です。参加者が一部入れ替わっていることもあり、はじめはデジタル・クローンについてのイメージなどの話題です。「デジタル・クローンをポジティブに捉えるのか? ネガティブに捉えるのか?」という問いに対しては、「日記やSNSの投稿もある意味デジタル・クローン」という比較的ポジティブな意見が出され、また、「(前回も出た話題だが)クローンを生成するのにそのオリジナルに対する”選別”はあるのか?」という、”作る側”と”作られる側”という関係性を示唆するような話題も出ました。

「デジタル・クローンが欲しい? 欲しくない?」という問いが出ます。これに対しては「多様性の担保」「自分のアーカイブ」といった機能としての存在意義に言及する場面もありました。更には「自分を助けるのは”自分”? それとも”自分でなくても良い”?」という発展的な話に至り、「SNSのリマインダって、自分のクローンからのお知らせでは?」という立ち返りもありました。また、クローンに対して”テーラーメイドの感覚”なのか、”着させられている感覚”のか、といったイメージの違いも現れ、再び関係性や相互性に関連する発言もありました。「自分のクローンって自分より”チョイ足し”したくならない?」という発想は、なるほどと思いながらも面白い感覚だと感じました。

“チョイ足し”や”着させられる”感覚から連想されるのであろうか、「自分を超えるクローンの存在」に言及がある一方、主体性や意思といったものが、オリジナルから「自律」しているものなのか、あるいは「支配」されているのか、という話題も上がります。このような話から「完全なコピー自体が不可能ではないか?」という意見も出されました。

後半、2つの印象的な話題がありました。一つは「ジョハリの窓」についての言及で、人間は自分自身について、「自分」「他人」の2者×「知っている」「気づいていない」の2事象の2×2=4象限の自分の姿(=窓)を持っている、というジョハリの窓の捉え方と、デジタル・クローンについての捉え方は密接に関係しそうだというお話。

もう一つは「芸術作品もクローンの一種では?」という話です。偉大な作曲家の曲は数百年間その人の作品として再現され、偉大な作家の美術作品は長い間その人の作品として鑑賞され続け、これはもはや死後のクローンではないか、という考え方。この問いに対しては「ピアノの自動演奏もクローン?」「自動演奏と生演奏の雰囲気は違う」「ジョン・ケージの4分33秒はその場の雰囲気を味わう曲」といった、様々な解釈に繋がる言及がありました。

今回は人数も少なかったため、最後に一人一言ずつ振り返っていただきました。
「2人称のクローン」「高度なロボット的視点」「互いに”私”」「自分に近い他人」「自分が”ツール”にはなりたくない」「ファッションのメタファー」「リアルとリモート」「”コピー”の定義」といったキーワードが出てきました。

2回を通して多岐に亘ったため、断片的にしか捉えきれない部分もありますが、参加者それぞれの身近に「デジタル・クローンと言っても大丈夫な存在」があり、技術の進歩とともにその形や大きさを変えつつ、時に姿を現したりしながら、実に上手に付き合っているのではないか?と思われます。それらの原点は恐らくデジタル以前から自分の中にある”自分”であり、デジタル・クローンは自己のジョハリの窓を見直すきっかけをくれたり、自分の死後により伝えやすくするためのツールになったりするのではないか?という期待を感じながら、レポートといたします。

文責:藤平 昌寿(倫理学研究室客員研究員)

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