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客員研究員・藤平昌…

倫理学研究室客員研究員・藤平昌寿が代表を務めている「リベラルアーツとちぎ」と倫理学研究室との共催による、「リベラルアーツカフェ Vol.119 健康情報をツクル・ツタエル・ツカウ~認知症予防の活動を通して~」を開催いたしました。

リベラルアーツカフェは毎月1回、サイエンスからアートまで、文理を問わず様々な分野についてゲストを招き、話題提供や対話・体験などを行っています。倫理学研究室代表・渡部麻衣子と共同研究をしている国立長寿医療研究センター主任研究員の黒田佑次郎さんをゲストとしてお招きすることにしました。
JR宇都宮駅東口にオープンしたばかりのコンベンション施設「ライトキューブ宇都宮」を対面会場とし、オンライン併用のハイブリッド開催です。

まずは、参加者の自己紹介からスタート。参加のきっかけとしては「最近運動をしていない」「年齢が70になり、認知症が身近に感じられるようになってきた」「高校の福祉関係の教員で、認知症について学びたい」など、背景も様々なことが伺えます。
ゲストの黒田さんからも自己紹介。現職の前には福島で震災復興に励む市民の健康に寄り添う活動もされており、様々なフェーズで人々の健康について考える機会を得られていたようです。また、現在所属の国立長寿医療研究センターも紹介いただきました。

カフェ前半は黒田さんからの話題提供です。
まずは、MCIと呼ばれる「軽度認知障害」について説明いただきました。MCIはいわゆる「健常な状態」と「認知症」の間にある存在とされ、予防の効果が比較的出やすい領域でもあるそうです。「生活習慣病の予防」「運動の習慣化」「食生活の見直し」「趣味などの知的活動」「社会での役割や対人交流」といった日常の活動により、最大で40%程度は修正が可能になるとのことで、1つの活動よりも複数の活動(多因子)の方がより効果的だそうです。

その後、「J-MINT研究(認知症予防を目指した多因子介入によるランダム化比較研究)」と呼ばれる、センターが取り組んでいる実践研究活動の動画を拝見しました。実際に参加されている高齢者の声などもここで聴くことができます。

実際の研究から社会実装へと進めるにあたり、いわゆる理論と実践とのギャップ(エビデンス・プラクティスギャップ)というものが存在し、そのギャップを埋めるキーワードの一つとして「ヘルスリテラシー」というものを提唱されています。
簡単に言うと、「健康や病気についての単なる知識や理解だけでなく、自分に必要な情報を収集し、活用できる能力のことで、自らの健康管理や治療の過程に主体的に参加していくためのもの」だということです。その事例としては「母子健康手帳」を挙げられていました。

ここからは黒田さんが現在取り組んでいる「MCIハンドブック」の作成について説明いただきます。MCIハンドブックの作成には6つのSTEPが設定され、

  1. 文献調査、Patient Question(患者の視点で挙げられた正接に関する疑問)の設定
  2. 解説ドラフト
  3. 改訂作業①
  4. 初版作成
  5. 介入研究
  6. 改訂作業②

を経て作成されました。患者や予防対象者だけでなく、家族や一般市民にも知っていただくため、出来るだけ分かりやすくする工夫などの苦労話なども聞けました。また一部の地域では、作成されたハンドブックを利用した健康教室なども試行されているそうです。

黒田さん自身が学んだこととしては、「ハンドブック作成段階から当事者の意見を反映すること」「ヘルスリテラシーのスキルを活用することで、専門用語をわかりやすい言葉に置き換えた」「ナラティブ(語り)の要素を盛り込むことで、より当事者に届く手引きとなった」などを挙げられました。

後半は、参加者との質疑応答・感想などとなりました。質問・感想の一部を記しておきます。

  • 認知症予防についていろいろ脳トレとか本が出ている、本格的な臨床試験、エビデンスはまだキッチリしていないという理解でいいのか?
  • 社会実装するにあたってのお金の出どころ(サイフ)が、医療保険なのか介護保険なのか、気になる。
  • 当事者のコラムなどは自分事として感じるには良いと思う。でも文章では長いので、QRコードで音声につながるようにしてはどうか?
  • 自分がMCIに該当するかどうかは、医者へ行かないとわからないだろうか?
  • 自分も60代後半で、いよいよこのような問題に直面するので、考えていきたい。
  • 70歳になり、並行処理がしにくくなってきた。運動量が減っているのも関係しているのかもしれない。高齢者手帳みたいなものが必要だと思う。
  • 認知症を告知される・されない、どちらが幸せに感じるか、考えるきっかけとなった。

対面参加の皆さんには冊子のMCIハンドブックが配布され、カフェの時点では近々web公開とのことでしたが、この度、「あたまとからだを元気にするMCIハンドブック」として公開されました。ぜひ広く皆さんにもご覧いただければと思います。

文責:藤平 昌寿(倫理学研究室客員研究員)

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客員研究員・藤平昌…

倫理学研究室客員研究員・藤平昌寿が代表を務めている「リベラルアーツとちぎ」と倫理学研究室との共催による、「リベラルアーツカフェ Vol.116・117 <私>はコピーできるのか?:デジタル・クローンについて考える」を2回シリーズにて開催いたしました。

リベラルアーツカフェは毎月1回、サイエンスからアートまで、文理を問わず様々な分野についてゲストを招き、話題提供や対話・体験などを行っています。倫理学研究室ではデジタル・クローンについての勉強会に参画していることもあり、今回デジタル・クローンについての哲学対話を企画することとなりました。

哲学対話の特性上、対面開催とリモート開催とでは対話の内容や指向性などに差異が生じやすいこともあり、敢えて同じテーマについて対面とリモートでの2回開催を当初想定しておりましたが、新型コロナウイルスの影響がまだ心配される時期でもあったため、2回ともリモート開催といたしました。

初回は2022/12/17にリモート開催いたしました。初回はデジタル・クローンについての範囲を敢えて限定せず、参加者それぞれが想像する「デジタル・クローン感」に基づいた対話を進めていきました。はじめはどちらかというとロボットのような、現実世界に存在しそうなクローンの話から始まりました。昔のアニメで言うとパーマンのコピーロボットのようなイメージでしょうか。「コピーがあったら便利」といったような現実的な話や、「どちらが”本物”なのか?」「どちらも”本体”では?」「もし事件が起こったら、どちらが裁かれるのか?」といったような倫理的な話題にも展開していきました。これらは「メタバースで自分のアバターが勝手にモノの売買や金銭のやり取りをしてしまったら?」というような、比較的近い将来、現実問題となり得そうな話題とも云えるでしょう。

次に出てきた疑問としては「コピーとは何?」という問いでした。「脳のコピーでは?」「自分の子どもは自分のコピー?」「そもそも同期して行動するのか、別人格として行動するのか?」など、参加者それぞれのクローンやコピーに対してのイメージや前提などの違いが現れます。また、作家・東野圭吾さんの「分身」という作品を紹介する方が居られたりするところを見ると、前述のパーマンのコピーロボットなどと同様、既存の小説やアニメなど、個々が過去に触れてきた様々な「作品」から受けるイメージが、各々の「デジタル・クローン感」形成の一端を担っているのかもしれない、などとも感じました。

更にはクローンについての「自我や自覚」「意識」「五感」などの話題にも展開していき、「言葉が無くても伝わる存在なのか?」という問いが出てきます。これに対し「脳が一緒なのか?」「むしろ第三者では?」という、前出したような疑問が再び出てきます。(経験上、哲学対話ではよくあることで、既出の問いや発想・感想などに何度も立ち返っていくことがあります。)「言葉無しで伝わる存在」に対して、「そもそも自分と自分が対話して生産的なのか?」という問いが投げかけられます。他の参加者からは「例えば、哲学者は自分と対話するのでは?」という答えが返ってきます。自分の中にある”自分”という存在は、デジタル・クローンに通ずる所も多いのかもしれません。

対話の最後の方では「そもそもデジタル・クローンは社会倫理的にどうなの?」という問いも発せられます。ミラーワールドやメタバースといった現実世界のパラレルワールドに自分の分身を置くことによる自他への影響などのほか、「犯罪者のクローンはOKなのか?」「例えば、ノーベル賞受賞者のクローンは増やした方が良いのか?」といった、いわゆるデジタル空間上での話に収束し始めます。「技術の進歩は止められない」といった意見も出るように、デジタル空間内に”自分”を自由に置ける日が近づきつつあることも示唆しているのだとも感じます。

初回は、デジタル・クローンの範囲を限定しなかったことや、参加者がやや多めだったこともあり、時間の大半が対話の「発散」に費やされました。時間も少々短く、やや消化不良感もあったようにも感じられたため、次の2回目ははじめから「デジタル空間内のクローン」という限定を付した上での思考・対話実践とすることをお伝えし、初回の幕を閉じました。

2回目は年が明けて2023/1/29に、やはりリモートで開催しました。前回の予告通り、デジタル空間内に限定したクローンについての対話です。参加者が一部入れ替わっていることもあり、はじめはデジタル・クローンについてのイメージなどの話題です。「デジタル・クローンをポジティブに捉えるのか? ネガティブに捉えるのか?」という問いに対しては、「日記やSNSの投稿もある意味デジタル・クローン」という比較的ポジティブな意見が出され、また、「(前回も出た話題だが)クローンを生成するのにそのオリジナルに対する”選別”はあるのか?」という、”作る側”と”作られる側”という関係性を示唆するような話題も出ました。

「デジタル・クローンが欲しい? 欲しくない?」という問いが出ます。これに対しては「多様性の担保」「自分のアーカイブ」といった機能としての存在意義に言及する場面もありました。更には「自分を助けるのは”自分”? それとも”自分でなくても良い”?」という発展的な話に至り、「SNSのリマインダって、自分のクローンからのお知らせでは?」という立ち返りもありました。また、クローンに対して”テーラーメイドの感覚”なのか、”着させられている感覚”のか、といったイメージの違いも現れ、再び関係性や相互性に関連する発言もありました。「自分のクローンって自分より”チョイ足し”したくならない?」という発想は、なるほどと思いながらも面白い感覚だと感じました。

“チョイ足し”や”着させられる”感覚から連想されるのであろうか、「自分を超えるクローンの存在」に言及がある一方、主体性や意思といったものが、オリジナルから「自律」しているものなのか、あるいは「支配」されているのか、という話題も上がります。このような話から「完全なコピー自体が不可能ではないか?」という意見も出されました。

後半、2つの印象的な話題がありました。一つは「ジョハリの窓」についての言及で、人間は自分自身について、「自分」「他人」の2者×「知っている」「気づいていない」の2事象の2×2=4象限の自分の姿(=窓)を持っている、というジョハリの窓の捉え方と、デジタル・クローンについての捉え方は密接に関係しそうだというお話。

もう一つは「芸術作品もクローンの一種では?」という話です。偉大な作曲家の曲は数百年間その人の作品として再現され、偉大な作家の美術作品は長い間その人の作品として鑑賞され続け、これはもはや死後のクローンではないか、という考え方。この問いに対しては「ピアノの自動演奏もクローン?」「自動演奏と生演奏の雰囲気は違う」「ジョン・ケージの4分33秒はその場の雰囲気を味わう曲」といった、様々な解釈に繋がる言及がありました。

今回は人数も少なかったため、最後に一人一言ずつ振り返っていただきました。
「2人称のクローン」「高度なロボット的視点」「互いに”私”」「自分に近い他人」「自分が”ツール”にはなりたくない」「ファッションのメタファー」「リアルとリモート」「”コピー”の定義」といったキーワードが出てきました。

2回を通して多岐に亘ったため、断片的にしか捉えきれない部分もありますが、参加者それぞれの身近に「デジタル・クローンと言っても大丈夫な存在」があり、技術の進歩とともにその形や大きさを変えつつ、時に姿を現したりしながら、実に上手に付き合っているのではないか?と思われます。それらの原点は恐らくデジタル以前から自分の中にある”自分”であり、デジタル・クローンは自己のジョハリの窓を見直すきっかけをくれたり、自分の死後により伝えやすくするためのツールになったりするのではないか?という期待を感じながら、レポートといたします。

文責:藤平 昌寿(倫理学研究室客員研究員)

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客員研究員・藤平昌…

倫理学研究室客員研究員の藤平が、自身が代表を務めている「リベラルアーツとちぎ」にて毎月1回、「リベラルアーツカフェ」を開催しています。

それぞれの画像をクリックすると、レポートページに飛びます。
どうぞご覧ください。

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イベント開催報告(…

2022年10月29日(土)、リベラルアーツカフェVol.114『エイジング・イン・プレイス~住み慣れた地域で暮らし続けること~』が、栃木県下野市内の介護付有料老人ホーム 新(あらた)カフェ「くりの実」と、オンラインのハイブリッドにより開催されました。本イベントは、当研究室(講師:渡部麻衣子)とリベラルアーツとちぎ(代表:藤平昌寿)との共催により実施されています。

話題提供者は公認心理師で、慶應義塾大学医学部 精神・神経科学教室ベネッセスタイルケア ベネッセ シニア・介護研究所にも所属されている江口洋子さん。江口さんと数名の参加者による現地参加と、全国各地(北海道から中国地方までいらっしゃいました)からのオンライン参加により、和やかに行われました。
はじめに、会場を提供いただいている新の施設長や介護クリエーターの皆さんから施設の概要等をご説明いただき、参加者全員の自己紹介を経て、江口さんからの話題提供へと進みます。


(写真中央が江口さん)

江口さんご自身は神経心理学がご専門で、記憶や思考、判断などといった高次脳機能についての研究をされています。その過程で、85歳以上の「超高齢者」、100歳以上の「百寿者」といった方々の生活に触れることも多く、そこから今回のテーマへと繋がっていきます。
今回のテーマでもある「エイジング・イン・プレイス」(AIP)とは、1980年代末にアメリカで生まれた「住み慣れた地域で暮らし続けること」といった概念を指すそうです。主に超高齢者が住み慣れた地域で暮らしていく実態調査などもされているとのことです。江口さんが調査を続けている東京都荒川区での事例などもご紹介いただきました。
江口さんから参加者の皆さんへ「AIPを実現している超高齢者が、地域で生活しやすいと感じる要素が不足していた場合、どうやって乗り越えるか? あるいは、乗り越えられなかった場合は不幸と感じるか?」という問いが提示されます。ここでいう要素とは、例えば「土地が平坦で移動がしやすい」「交通の便が良い」「買い物がしやすい」といといった地理的特性や、「ご近所さんと話がしやすい」「いつも気にかけてくれる」といった近隣住民との関係性などを指します。

江口さんの問いから対話をスタートします。参加者の発言またはオンラインチャットから、問いや返答、新たな考えなどが次々と繰り出されます。詳しいレポートはリベラルアーツとちぎ公式サイトに掲載されますが、対話で出てきた主なトピックは次の通りです。

  • •近所の独居老人に手を差し伸べる方法やタイミングなどが難しいと感じる。地域包括ケアなども存在するが、他地域での状況などを知りたい。
  • 田舎だと人口密度が低く、「スーパーで会う人がご近所さん」という感覚は薄い。手を差し伸べるという所に繋がらない気がする。
  • 高齢者の記憶障害について話があったが、好奇心も重要な役割があると思う。AIPではどのように位置づけられるか?
  • 母が寒冷地の一軒家で一人暮らし。昨年は大雪で行政の除雪が間に合わず、近隣の方の助力や民間サービスの利用もあるが、玄関から出られなかったり、落雪で隣家とトラブルになったりした。気候的に過酷な地域での高齢者の自立は難しいと痛感している。
  • 実際の感覚からすると、高齢になって動きにくくなってから「外に出よう」というのはなかなかハードルが高いと思われる。逆に、子育て終了頃~シニア前ぐらいの間に「外と交流を持つ」経験をされてきた方々を見ると、高齢になっても比較的アクティブに動けている印象がある。
  • 交流に対する男女差も顕著に感じる。地域の交流には男性よりも女性が出てくる割合が多く、地域における男性高齢者の問題は非常に気になる。
  • 荒川区はコミュニティが成立しているが、都内では非常に特殊な感じを受ける。他では自治会が崩壊している地域も多く、そのような地域でAIP比較検討してはどうか?
  • 高齢者であっても「問いかける」機会は必要。問いかけ方などいろいろ考えられるのでは。
  • 一人一人が「自分らしく=わがまま?に生きていいと認知できること」が重要なマインドセットだと思う。自分が幸せになっていいことを許容する。結果的に他者も幸せになれると感じる。

このような発言から、それぞれのトピックを掘り下げていく対話を1時間半にわたり、ノンストップで行いました。カフェ終了後、現地参加の皆さんは新(あらた)の施設を見学させていただき、今日の話の内容を肌で感じながら、更に考えを深める良い経験となりました。

ハイブリッドでの対話という、当研究室としては初の試みではありましたが、非常に良い経験となりました。今後もこのような倫理的なテーマについて、市民の皆さんとのフラットな対話を重ねていきたいと考えております。次の機会にもぜひご参加いただき、可能な方はぜひ現地参加でお会いできればと思います。

[報告:藤平 昌寿 写真:岡部 祥太]