自治医科大学 精神医学講座

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教授のひとりごと

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2020-12-09 僕が大学への勤務を続けている理由

 高校生の頃、アンフェタミンの作用機序に関する記事を見た。それが医学部を目指すことになったきっかけである。元々生物学には興味があったので、なんとなく理学部に進もうかと考えていた。しかし当時の僕の頭の中は古典的ダーウィニズムと麻雀で勝つための戦略にその多くを支配されていたので、理学部でノーテンが続けば淘汰されるのは必至、また和了っても点棒が少ない(給料が低い)という思考が働き医学部を進学先に決めた。大学は留年が少なく卒業が楽そうな所を選んだ。なんとも夢のない話ではあるが、ほぼ同じ理由で入学してきた同級生がいたのには笑えた。

 

 卒業後の進路については、やはり脳や人の感情に興味があったので、まず脳神経内科を考えた。しかし、当時の脳神経内科の対象は変性疾患と末梢神経障害という印象が強く、もっと直接的に高次脳機能に関わりたかった。次に脳神経外科を考えたが、やはりそこでも先生方の関心はいかに麻痺や運動機能の低下を起こさず安全な手術をするか、というところにあったので、消去法で精神科を選ぶことにした。最終的に後押しした理由は、精神科なら少しくらいやらかしても淘汰されにくいだろう、収入も倍満まではいかないが、跳満くらいはあるだろう、という打算である。

 

 出身大学に入局しなかったのは、当時の病棟は3K(汚い、臭い、怖い)であり、また僕が実習中に指導医を患者と間違える、という失態をやらかしたからである。研修先に自治医大を選んだ理由は、精神病理学のメッカであり、精神病理学と生物学をつなげるような仕事がしたい、というところであるが、見学にお邪魔した時にとある大先生から本をお借りし、いつ返せば良いのか、とお尋ねしたら「あー採用面接の時でいいよ」と言われてしまったことも大きい。雀士の習性として、基本的に流れには逆らえなかった。しかし真の理由は、自治医大は当時から2年間のレジデント契約であったため、2年経って合わなかったら辞めても経歴に傷がつかないだろう、単科精神科病院で研修するよりもつぶしが効き診療科を変える時に有利だろう、文系学部に就職するツテもあるかもしれない、という打算である。同級生には、精神病理学を勉強して将来は女子大の教授になると宣言し、卒業した。

 

 自治医大に来てからは、しばらくドイツ語と格闘しながら精神病理学の古典と向き合うことが続いた。大学ではドイツ語のテストが辞書持ち込み可であったため、全く勉強してこなかったことがここで響いた。しかし、2ヶ月程で大変なことに気づいてしまった。どうやら精神病理学の知識量と精神科医療現場での臨床スキルはあまり相関していないようだった。つたない臨床経験ではあったが、患者さんが内因性のレジリアンスを発揮し、医師の思惑を外れて勝手にどんどん良くなっていく姿を目の当たりにした。そこで発想を変える必要性に迫られ、精神医学研究に対するモチベーションを失いかけた。先に出身大学の脳神経外科に入局した友人に相談したところ、怖い先生がいるのでやめた方がいいよ、とアドバイスしてくれたので精神科に残ることにした。その彼は、怖い先生と仕事をするのが嫌で国外逃亡し、いまだ日本に帰ってこない。

 

 しかし、捨てる神あれば拾う神あり、というもので、そのような時に声をかけてくれたのが師匠だった。自治医大に入局を決めたもう一つの理由に、ラテン系でファンキーな指導医が魅力的だった、というものがあったが、その先生は憧れの文系大学の教官として就職してしまい、代わりに入って来たのが師匠だった。師匠は風貌からして見るからに変人であり、出会いも強烈だった。師匠から初めてかけていただいた言葉は、「お前俺のことをシゾだと思っているだろう?」というものだった。それに対して僕がどう答えたかあまり覚えていないが、「どうして分かったのですか。さすが精神科医ですね、すごい」とよく分からない形でその場を誤魔化した。そして、次にかけていただいた言葉が、「お前ネズミ◯せるか?」だった。僕は、大学時代に嗜みで薬理学の教室に出入りし、免疫染色を習っていた。イエスと答えたその時から研究生活が始まった。

 

 その後、しばらくは師匠と夜な夜な遺伝子のスクリーニングを続ける日々が続いた。師匠は筋金入りのやばい人で、これからは変態の時代だ、というよく分からないことをいつも言っていた。また、つまらないことを言うと無視されるので、会話には大喜利大会を続けているような緊張感があった。しかし、その緊張感はどこか懐かしく、心地よかった。研究は壮大な構想の元に続けられたが、途中で壮大ではないことが判明した。また師匠はあまりに傑出しすぎていたため、他大学に引き抜かれてしまった。それでも、何とか学位を得られるだけの仕事は終えることができた。

 

 師匠がいなくなり、これからどうしたものか、と考えていた時に声をかけていただいたのが、当時神経内科教授だった故・中野今治先生である。「君、早く留学した方がいいよ」。そのお言葉で、僕は海外に出ることにした。推薦状は師匠に頼んだのだが、それは酷い内容で、”His intelligence is a little bit inferior to me, but superior to most of psychiatrists in Japan”と書かれており、誤字も多かった。よく留学を受け入れてもらえたものである。留学先は師匠の古巣で、ボスのロン様は到着するなり「“彼”と一緒に仕事をしていたというから、どんな変人が来るかとジョージア(秘書さん)がビクビクしていたので、大丈夫、普通の人だから、と言っておいたよ!」と爽やかに声をかけてくれた。研究では、これまでの仕事に対して、科学的にはありかもしれないが、どうも臨床精神医学の発展には役立っていないのではないか、という疑問を持ち始めていた。医者としては基礎系の仕事よりも、目の前の患者を助けることの役に立つ仕事がしたい、という気持ちが強くなっていた。幸いにも、ラボにはそのような考えを受け入れる土壌があったので、当時アメリカでトピックとなっていた産後うつ病の研究に従事することができた。

 

 その後も紆余曲折はありながら、大学職員としての仕事を続けている。何度か辞めようと思ったこともあったが、大学を離れてしまうと刺激が足りなくてつまらなくなってしまいそうなので、辞められていない。結局のところ、なんだかんだ言ってもこの生活が好きなのである。特に、若手の先生たちとアイデアを出しながら研究計画や論文のロジックを組み立てている時間は楽しい。目の前の材料を使って、考えられる可能性を吟味して形になるものを考える。この時に本質を見失ってはいけない。麻雀の役作りに似ている。周囲の聴牌気配に注意しつつ、あらゆる可能性を考えて手牌を揃え、可能な限り最大の点棒を狙う。脳が刺激されて生きている感じがする、と言ったら大げさだろうか。

 

興味を感じた方がおられましたらいつでもご連絡ください。


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