医学部
School of Medicine
(2025年度 取材)
大切なのは医師の仕事も育児も自分一人で抱えこまないこと。

新潟県立新発田病院
内科部長
影向一美 新潟県
消化器内科医
卒後4年目に体験した大規模な自然災害
卒業後、2年間の初期臨床研修に従事し、義務年限3年目に大学の同期で同県出身の夫と結婚しました。その翌年の2004年、地域医療に従事していた時に新潟県中越地震が発生。私と夫は県外の学会に参加していたため地震による直接的な被害は免れましたが、住んでいた家に帰ると「倒壊のおそれがあり危険」という赤紙が貼られていました。勤めていた病院も被災により患者さんを入院させることができなくなり、自衛隊のヘリで患者さんを近隣の病院に搬送。私は病院の会議室に寝泊まりしながら、日中は先輩医師の指示に従い、診療キットを持参して各避難所に設けられた簡易診療所を回っていました。ようやく家に住めるようになったのは8週間ほど経ってからです。この経験から、「いつも通りの幸せ」がどれほど有難いものか身に染みて実感しました。
現行モデルの先駆けとなった就業時間短縮制度
へき地勤務に従事していた2005年に第一子を出産。妊娠中から県内の自治医科大学の先輩方や大学から診療応援をいただくなど、常勤医3名の病院でしたので大変心強く、また、大学のつながりを強く感じました。そして7か月間の育児休業を経て復職。当時の県立病院には医師の育児勤務制度がなかったため、上司であり7期生の先輩でもある布施院長からご提案いただいた、年次休暇や育児休暇を組み合わせた就業時間短縮制度を利用しました。1日4時間の実働から段階的に勤務時間を延ばしていくという制度で、これが現行の育児短時間勤務のモデルになったと聞いています。さらに夜間の緊急呼び出しや日当直勤務の免除など、同僚の先生方のご協力のもと多大なご配慮をいただきました。
周囲と協力しながらみんなで子育てをする
順調に勤務時間を延ばしていきましたが、子どもの発病と入院を機に自分自身が体調を崩し、休職してしまいました。今思うと「子どものために頑張らなければならない」「医師としてこうあるべき」と、仕事も育児も完璧にこなそうと自分を追い込みすぎた気がします。義務年限も半分以上残っていましたし、この時ばかりは「もう医師として働くのは無理なのではないか」と先の見えないトンネルにいるようでした。
そんな子育ての中で救いとなったのが夫や母の援助、そして、保育園や病児保育のスタッフ、ファミリー・サポート・センターのスタッフ、ママ友など周囲のサポートでした。それまでは「些細なことを相談できない」「これ以上頼めない」と遠慮していた自分がいましたが、周囲の人に「お願いすること」が大事であると気付かされたのです。もちろん思い通りにならないこともありますが、子育てを通じていろんな方々との関わりが増え、多様な価値観があることを知り、自分自身の世界も広がりました。さらにみなさんの助けを借りて、いい意味で手抜きや息抜きもそれなりに覚えられた気がします。3人の子どもを授かり、結果的に12年かけて義務年限を終了することができました。医師をドロップアウトすることなく続けられたのは、逆に「義務年限」というレールがあったおかげかもしれません。
誰かに相談することで答えはきっと見つかる
現在は、消化器内科医として県立新発田病院に勤めながら育児でのブランクを補うために臨床の経験を重ねています。消化器内科医を選んだきっかけは、内視鏡診療に魅せられたこと。担う臓器も疾患も多く、早期がんなどは自分で発見し、治療までも可能です。医学部での勉強も医師国家試験も正解は一つでしたが、実際の臨床では正解が一つではなかったり、100点の回答がなかったりします。その中で患者さんにとってのbetterを一緒に考える医師でありたいと考えています。また、プライベートではヨガや英会話の学習を再開して海外旅行にも行きたいです。
自治医科大学は創立50周年を迎え、女性の在校生や卒業生も年々増えています。私も2011年から「J-PASS」という卒後ワークライフバランスについて考える会の活動に参加し、在校生や卒業生との交流を続けています。義務年限中は不安なこと、悩むこともたくさんあると思いますが、決して一人ではなく、自治医科大学は全国に仲間がいるということを思い出してほしいです。そして、子育てとの両立も、専門医の取得も「自分はどうしたいのか、どうありたいのか」を大切に、自分らしい人生を歩んでほしいと願っています。
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