医学部 School of Medicine

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「自治医大 青春白書」 自分のやるべきことを、やれる時にやれ

北村邦夫

一般社団法人日本家族計画協会(群馬1期)

理事長北村邦夫 群馬県

母子家庭という環境で育てられた僕は、幼い頃から父と母のいる家庭を夢見て生きてきた。その夢の実現を急いでか学生の分際で結婚。地元の群馬県で学生仲間を含めた160人近くを集めた会費500円の披露宴が開かれた。夏真っ盛り。仲間達が、大学から披露宴会場までの道ばたで咲いていたひまわりの花を無断で切り取ってきたというが、その花が会場いっぱいに飾られた。ケーキは友人手製の小さなものだった。残念ながら新婚旅行はない。

しかし、結婚に至るまでの道のりが順風満帆だったわけではない。医学部には入ったが、まだ医者になったわけではないのに、何が結婚だという批判は、親族を中心に大きく渦巻いていた。それにもかかわらず、結婚の決断をさせた理由は何か。携帯電話やメールなどない時代だ。耳元で快く響く声も、受話器を置いた途端、その距離感を急激に感じさせる。手紙も同様だ。相手からのメッセージが二日後に届くもどかしさに耐えられなかった。「こんな不自然な生活は、もう嫌だ」と本当にそう思った。『LOVE』の文字をくり貫いたクッキーが、バレンタインデーに届けられて心が吹っ切れた。

「結婚したい」と伝えたときの母の表情を今も忘れない。働き蜂となって、6人の子どもを育てることに専念していた母には、自己主張する習慣もなく、ただ「そうかい」とうなずくだけだった。そんなこともあってか、僕の結婚に批判的だった兄姉の何人かは、結婚式にも出席しなかった。

学生結婚に憧れていたわけではない。学業と結婚生活との両立は容易ではないことを知っていたつもりだ。幸か不幸か、高校を卒業して以来、経済的な援助を親から期待できなかった僕の場合、否応なく自活せざるを得なかった。新聞配達、セールスマン、夜警など多浪生活での受験勉強の合間に行うことのできる色々な仕事に触れる機会を持った。体力と働く気力さえあれば、生きることは難しいことではないことを肌で感じとっていた僕には、一人で生きることも二人で生きることも一緒だという楽観的な考えがあった。

結婚後のありふれた結果として妊娠もしたが、慌てることはなかった。「どうにかなるさ」という捨て鉢な気持ちもなかった。「産めば何とかなるさ」では子どもは産めない。産むことは育てることであり、育てることは共に生き抜くことだ。幸いにも、子ども好きな女性が近くに住んでいて、昼間の育児を任せることができた。

学生にもかかわらず、僕は小金井の庭付きの一軒家に住んでいた。もちろん、初めからそうであったわけではない。隣の家の物音だって聞こえてしまうボロアパートが突然の一軒家となったのだ。隣近所の人たちを巻き込んでの「自分たちで健康を守る会」の結成がきっかけだった。アパートの大家さんを会長にして始めた「自分たちで健康を守る会」には『自治医大生動く!』とばかりに、マスコミが殺到し、大家さんは一躍時の人となった。僕の小さなアパートの一室を使っての活動では困難を窮めたことを察してか、大家さんから家賃を上げないことを条件に大きな一軒家を提供されるという幸運を手にしたのだ。目覚めると庭に取り立ての野菜が置かれているのを見つけ、人のやさしさに触れた。「自分のやれることを、やれるときにやれ。代償を求めるのではなく」を信条としていた僕には、何とも恵まれた体験となった。

近くで脳卒中に倒れた人が出た時、医学生である僕を真っ先に頼り、僕の手で救急車を呼び、病院に運び込んだ。残念ながら、その男性は一週間で帰らぬ人となった。大学病院ということもあって、死亡直後に剖検の申し出がなされたが、遺族は「ノー」と主張した。研究熱心な医師団が強く剖検を求めたこともあって、弁護士を立てるという険悪な事態となった。医学生とは言え、患者を紹介した立場でもあり、遂に医師団は僕に家族を説得するよう求めてきた。「日本の医学の発展のために何とか剖検ができるように頼む!」と当時の教授に頭を下げられた。その後、事態は急変し家族は剖検を了承した。結局、僕が葬儀委員の一人となり、役所での事務手続き、葬儀場の手配、関係者への連絡など、慌ただしさのうちに葬儀は滞りなく終了した。人は権威によって動くのではない。誠心誠意の姿勢が人を動かすのだと教えられた。

僕の大学卒業の日。生まれたばかりの二男を背負い、長男の手を引いて妻は出席した。3年半にも及んだ学生結婚の卒業式でもある。既に2歳になっていた長男は、僕の名前が呼ばれて卒業証書が渡されるそのとき、「おとうさん!」と僕を呼んだ。そんな長男も40歳になった。母は既に他界している。最終的には3男2女に恵まれ、孫も5人に増えた。2男は香港の女性と、長女はネパール出身の男性と結婚している。「国際結婚家族」というのが僕の数少ない誇りのひとつでもある。

前列左から2番目が筆者

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