医学部 School of Medicine

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メッセージ その他

へき地を知っている医師が救急システムを構築する

今明秀

八戸市立市民病院

院長兼臨床研修センター所長今明秀 青森県

この度は栄えある地域医療奨励賞にお選びいただき誠にありがとうございます。この表彰は、私にとって身に余る栄誉であるだけでなく、医師35年間を振り返る良い機会となりました。医師になって以来、仕事や付き合いの場で数え切れないほど多くの人たちと出会いました。上司や先輩の諸氏、同輩や後輩の皆さん、行政や消防、そして患者さんの方々。たくさんの人たちから多くのことを教わり、さまざまな経験をさせてもらいました。今自分があるのは、その人たちのお蔭だと思います。しかし、今はまだ道半ばです。これからも人との絆を大切にし、これから起こる新しい出会いに期待して、医療に頑張って参ります。

私は1958年の青森市生まれです。自治医科大学の6期生として1983年に卒業し、故郷の青森県立中央病院で2年間の臨床研修を行いました。研修医2年目の時に忘れられないできごと「本町おかみ殺人事件」を経験しました。私が当直中の日曜日の朝、暴漢に刺された女性が救急車で運ばれてきました。私は血気胸に対して胸腔ドレーンを入れましたが次に輸血なのか、手術なのか判断ができませんでした。応援の外科医の到着時には、女性は昏睡状態になり、気管挿管をしました。輸血の交差試験結果を待ち、さらに上級の外科医の到着を待ちます。重症外傷の診療の手順と、緊急開胸手術適応を知りませんでした。患者は、血圧低下とともに意識がなくなり、手術室の準備中に、目の前で亡くなってしまいました。私は完全に自信を失いました。目の前に運ばれてきた「助けて」と自分を呼ぶ外傷の患者を救うこともできないで、外科医を目指すなんて傲慢ではないのかと。

自分はどうすればいいのか、との思いをかかえたまま、大量の医学知識と経験を詰め込む2年間の臨床研修を終えた時、三戸郡倉石村診療所の勤務を命令されました(図1)。倉石村の診療所は小さく古くて医師は自分ひとり、という心細い環境でした。未熟だった私ですが、村の人々はあたかかく迎え、頼りにしてくれました。診療内容は外来に加えて入院ベッドが12床あったので、365日診療所を離れにくい状況でした。

図1 医師3年目で赴任した倉石村の診療所

その後、へき地中核病院公立野辺地病院に外科医師として2年間勤務しました。その間にへき地診療所巡回診療と六ヶ所村診療所外来を受け持ちしました。1988年六戸町立病院では3期生の岡本一男院長と二人で切り盛りしました。年間200日当直しました。1991年には大間病院外科副院長として2年間勤務しました。本州最北端の街で手術、透析、病棟、外来、当直、往診、あらゆることを行いました。1993年より5年間へき地中核病院公立野辺地病院外科副医長として勤務しました。その間、同窓生がいる田子病院、百石病院、大間病院の応援を行いました。小さな病院に勤務し、経験を積むなかで医師として進む道が定まっていきました。がんになったとしても、遠くの大病院に行く時間的余裕はあるはずだ。一方で、突然の事故や事件による外傷患者や、脳卒中・心筋梗塞などで倒れた患者は一刻を争うのに、救急医療体制が整っている地域はまだ少ない。忘れかけていた研修医の時に大失敗した「本町おかみ殺人事件」の記憶がよみがえります。助かるはずの命を助けられるよう、地域の救急医療体制を担う医師を目指すことに決めました。当時の青森県には、現場の第一線で働く救急専門医は1人もいませんでした。20年前の1997年、私は救急医療を学ぶため、東京の日本医科大学高度救命救急センターの門をたたきました。すぐに関連病院の川口市立医療センターに赴任になりました。当時5人の救急医師がいて、救急車で運ばれる年間2,000人の重傷患者に対応していました。そのうち500人が重症の外傷で、私とセンター長ですべての外傷の手術に対応するのです。当直が月10回、それ以外はオンコール状態で、次々と緊急手術をこなしながら、私は救急技術を習得し、2年たったときには若い救急医師を教える立場になりました。 東京周辺の、後進の指導に毎日かかわっていた私ですが、故郷の青森県の救急の現状には心を痛めていました。青森県には救急を指導する医師が相変わらずほとんどいないので、東京との格差は広がる一方でした。悩んだり迷ったりしましたが、2004年4月、私は八戸市立市民病院に救命救急センター所長として赴任しました。医師不足の市民病院です。救急医もたった一人でした。研修医数は50%充足の状況でした。さらに研修医の教育もお願いされ臨床研修センター所長も兼務しました。努力の甲斐があり、現在研修医は1学年19名を獲得し、救急医は最高で22名在籍まで増え(図2)、10年間で救急専門医を40名育てました。ドクターヘリ(東北最多出動、図3)、ドクターカー(日本最多出動、図4)を開始し、病院前から診療するスタイルを確立しました。青森県に二機ドクターヘリが必要なことを主張し実現させました。へき地で発生した心肺停止や出血性ショックは夜間には絶望的です。それに対して、経皮心肺補助装置を車に乗せて出動し、へき地で手術をすることができる車両を開発しました(図3)。山間部の五戸町立病院に救急医師を派遣し、若い救急医師にへき地医療を経験させています。そして、2017年4月より病院長を拝命し1,500人の職員と共に未来に向かって仕事をしています。

地方都市八戸での救急活動の成功が広く報道されることにより、全国の地方救命救急センターでは、ドクターヘリを始めるようになりました。私がドクターヘリの導入を唱えた時にはわずか7機だったのに、今は51機に増えました。その数だけ瀕死の患者が助かっているのです。 自治医科大学では、総合的な医学の知識や技術の習得に加え、全寮制でいろいろな立場の人々との交わりを通して思いやりの深い、人間性の豊かな医師を育成するような教育を実践してきました。それは我々自治医科大学卒業生が全人的な医療を提供する臨床医になることを目指しているからに他ならないからです。 今回の受賞に自信過剰、増長、慢心することなく、今後も、多くの人たちとの絆を大切にして、医療に邁進していきたいと思います。最後になりましたが、このような晴れがましい機会を与えていただいた青沼孝徳同窓会長と石川雄一副会長、小野剛副会長、同窓会報編集役員の皆様に御礼申し上げます。

  • 参考文献

今明秀著:青森ドクターヘリ 劇的救命日記。2014.毎日新聞社

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