医学部 School of Medicine

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メッセージ リレーエッセイ

悲しいほどのムラサキ

中村英一

(福岡6期)

中村英一 福岡県

ピアニスト村松健さん作曲の「悲しいほどのムラサキ」というピアノ曲をYou Tubeで聴いて思い出された、さまざまの事どもを書き留めてみました。

脈診をして

私の診療圏のある天草五和町二江地区は、漁業の盛んな地域です。また、昭和41年に天 草五橋が開通する前は離島であったためか、海運業に携わる方も多い地域です。70代以上 の男性の患者さんの多くは、中学校を卒業する前から父親に漁を仕込まれ、卒業すると同時に海運業や遠洋 漁業に従事するため天草を離れ、定年とともに天草へ帰ってきたという人たちです。

その人たちの脈診を行うと、なんと3~4人に1人は、左右どちらかの手の指、主に第2・第3指を失ってい ることに気づきます。第2・第3指ですから、自ら指を詰めたわけではありません。仕事に慣れない10代・20 代の頃、ロープや網綱に巻かれたりディーゼル機関の歯車やチェーンに挟まれたりしてできた傷痕なので す。私も思わず「親は心配さいたろうなぁ」と声をかけてしまいます。すると何か遠いところを見るような 目つきで、その傷跡を愛おしそうに撫でながら、その傷のできた由来を語ってくれます。

ある時、70代の男性が上気道炎の症状で受診しました。母親は当院のかかりつけで、頭痛や不眠等、不定 愁訴の多い90代の患者です。男性の脈診をすると、右手第2・第3指がありません。その由来を尋ねると、ご 自身でおもむろに左足のズボンをめくります。見ると足関節にねじれたような跡があります。指を失ったの と同じ事故の傷跡だそうです。その男性は、中学卒業と同時に遠洋漁業に就き、八戸や釧路を拠点にサバや イワシのまき網漁業に従事していました。20代前半の頃、漁船を波止につける際、もやい綱に手と足を巻か れる事故の時にできた傷跡とのことでした。

三陸海岸沖で操業中であったため、最も近くの岩手県釜石市の現在の釜石市民病院に入院。左脚が動かせないため、寝たきりだったそうです。すると、それまで一度も天草から出たことのなかった母親が、寝台列 車を乗り継いで釜石まで来てくれたとのこと。それを聞きながら、母親は入院していた病院近くの民宿かホ テルに滞在していたのかと尋ねました。すると、笑いながら「何の、俺の下の世話ばするために俺のベッド の下にゴザば敷いて泊まっとった。40日間。」と言います。その時の様子が目に見えるようでした。当時の ことを語る男性も、遠い思い出に浸っていた様子でした。その後、その男性の母親の不定愁訴は、不思議な ことに次第に少なくなっていきました。

人見知りのままで

今年は、コロナ騒動で、とても窮屈な世の中です。半年前の2月までは中洲を徘徊できていたのに! 3月に入ると次第に全国で流行していく状態となりました。3月と言えば学校は春休み。卒業・入学のシーズンです。天草出身の親から生まれた子供たちも、天草にいる祖父母に会うために都会からやってきます。3月の下旬、60代の祖母に連れられ、小学校入学を控えた女の子が受診しました。4~5日続く微熱を伴う上気道炎症状が主訴でした。連れてきた祖母のほうが、コロナに対する不安をなんとなく抱えているのがわかりました。聴診するとわずかに笛声音が聞こえます。喘息性気管支炎です。微熱は気管支炎に伴う症状と思われました。女の子には笑いながら「咳の出るけん、微熱の出るとよ」と語りかけ、1週間分の処方をしました。

3日後の再受診時には、熱も下がり咳症状も落ち着いてきたとのこと。お薬がなくなる頃もう一回受診してねと付き添いの祖母に告げました。小学校入学はコロナ騒動のため延期になりそうだ、しばらく天草に滞在する予定であると聞いていたからです。すると、その翌日に再び受診。ちょうど4月に入っていました。

女の子は、何故か涙をポロポロと流していました。なぜ泣いているのかわかりませんでした。祖母に「どうしたと?」と尋ねました。延期されるはずだった小学校の入学式が予定通り行われることになり、明日、一人で熊本空港から名古屋へと帰ることになったそうです。女の子の顔を改めて見ますと、涙をポロポロと流していますが泣き声は出しません。しっかりと私の顔を見つめてくれています。その時は、なぜ女の子が泣いているのか分かりませんでした。妙に気になったので、数日後、祖母の自宅へ電話をしてしまいました。
女の子は無事に名古屋市の自宅へ着いたとのこと。あの時なぜ泣いていたのかを尋ねてみました。「あの子は天草が好きで好きでどうしようもなく好きなのです。名古屋に帰らねばならなくなって泣いていたのだと思います」との返事。コロナの不安。一人で飛行機に乗り、突然名古屋へと帰らなければならなくなったこと。診察を受けるため、医者の前に座った緊張。自分が名古屋から来て、コロナを天草へと持ってきてしまったのではないかと言う漠然とした後悔。大好きな祖父母のお家から帰らなければならなくなった寂しさ。そういったものが全てごっちゃになって、私の前で声も出さずに涙をポロポロ流していたのではと感じます。いつまでも忘れられない6歳の女の子の顔です。

蝉の姿で会いに来てくれた

居酒屋にはよく行きます(いえ、行ってました)。まずビールを一杯だけ飲み、次は必ずキープしてある焼酎を頼み、水割りにします。焼酎は自分の好きな天草酒造の「池の露」か、長島の「さつま島美人」です。どちらも、そのラベルに二羽のつがいの鶴が舞っているのが好きだからです。実は医学部学生時代、アルコール中毒、いわゆるアル中の「中」と焼酎の「酎」は同じ文言だと思っていたことがあります。焼酎を飲む人間は全員、アル中と思っていたのです。なんと素朴な大学生でしょう。今となっては隔世の感があります。

今年はじめ、馴染みの居酒屋でのこと。いつもの調子で、キープしてあった「さつま島美人」を頼み、そのラベルの上下に描かれた鶴のどっちがオスかメスかを、居酒屋の女性スタッフと議論をしたことがありました。様々なうんちくを総動員します。

その後1ヵ月ほどして再び行ったときのことです。いつも給仕をしてくれていた50台の女性スタッフに、突然、虚弱な印象を持ったのです。心配になり声をかけましたが、女性は「どうもなかよ~」と答えます。翌日も気になって店に電話をしました。女将さんが彼女に尋ねてくれました。「ちょっと悩み事があって食事が進まないだけのようですよ」との返事。「もし何かあったら一回私の診療所に来てくれ」と言って電話を切りました。

その後はコロナのこともあり、なかなかその居酒屋へは行く機会がありませんでした。8月に入り、ほぼ半年ぶりにその居酒屋へ夫婦で立ち寄りました。

博多で食べたら、一皿3~4000円は取られるはずの刺身がここ天草では1000円です。焼酎を飲みながら、ふと違和感を覚えました。いつも給仕してくれていたスタッフの一人が見当たりません。その時は、今日は休みなのかなくらいに思いました。焼酎を水割りで5~6杯飲んだところで、満足して席を立つことにしました。妻が会計へと向かった後、いつもの、もう1人のスタッフに、気になっていた女性スタッフのことを尋ねました。彼女は2ヶ月前の6月に亡くなったと告げられました。私が2月に電話した後、しばらくして病気が見つかった、その時は既に末期の状態で手遅れであったとのこと。帽子を脱ぎ、それを教えてくれたスタッフと女将さんに頭を下げ、店を出ました。

しばらく歩いて駐車場へ。妻の運転のため助手席側へ乗ろうとしました。すると私の足元から、何かまとわりつきながら登ってくるものがあります。それは私の腰くらいまで来たあと、声を発しながら、いきなり空へと飛んでいきました。蝉でした。私には、その時、あの居酒屋の亡くなった女性が、何とか私に挨拶をしに来てくれたのだということがわかっていました。

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