医学部 School of Medicine

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「自治医大 青春白書」~二度あることは何度もある~

奥野正孝

三重県地域医療研修センター(三重1期)

奥野正孝 三重県

秋といえば運動会。大きな400mトラックを取り囲むだけの人数は当然いなくて、広すぎる運動場を持て余しながらもたくさんの学生職員が跳んだり走ったりの和気藹々の運動会であった。そこでどんな競技をしたかというとほとんど覚えていないが、私がまぶたを閉じなくてもはっきりと浮かぶ競技がムカデ競争である。ムカデ競争とは、ご存じのとおり複数人が縦に並び前後の足を交互に結んで、かけ声と息と足を合わせて駆ける競技である。

「よーい、どん」の合図と共に我がチームも順調にゴールを目指して駆けだした。この競技の難しいところは、最初はいいのだが終わり頃になるとメンバー間の体力差と集中力の低下で息と足が合わなくなる点で、我がチームも案の定ゴール寸前でみんなの足たちがもつれ、後ろから前に向かって勢いよく将棋倒しになった。調子乗りの私は当然先頭で音頭を取っていたのだが、後ろからの力に抗せず結構な力で総芝生の柔らかい地面に正面から突っ込んでいった。変な音が体のどこかでした。見事な右鎖骨骨折である。その後の記憶は定かではなく、どのように治したのかも覚えていないが、たくさんのみなさんの世話になったことは間違いない。

冬といえばスキーである。大学に入るまでスキーの経験はなく、高校時代の友人との初めてのスキーでは、リフトから落ちるのは当然のことで、あまりに転ぶのでヤッケの下に着ていたセーターにたくさんの雪がへばり付いてそれが凍ってとても重くなって困ったり、あげくは滑走中に真後ろに転んだため背中で滑ることになり止まることができず麓の食堂の中にまでお邪魔したりと散々であった。でも、2016年7月号の会報で石黒君が紹介してくれたスキーゼミに私も入り、1週間リフトを使わずに自分たちで斜面を踏み固めてゲレンデを作って練習するなどの研鑽?を重ねてなんとか滑れるようにはなっていた。

古屋君は寮で自炊をしておいしい鍋料理を作っていて、私も時々お相伴にあずかっていた。そんなある時に古屋君の故郷の秋田にスキーに行くことが決まった。目指すは田沢湖スキー場である。雪国育ちの人達は雪の扱いに慣れていて、その技量にとても追いつけるものではないが、研鑽?を積んでいた私はなんとかかんとか一緒に滑ることが出来た。スキーでの事故は夕方疲れた時によく起こるというのは後から知ったことであるが、一日の最後の滑りでそれは起こった。急な斜面から平坦な面になったので、疲れた膝を伸ばし棒立ちのまま進んでいくと前に上りがあった。そのまま棒立ちでいくと上りの手前に僅かなへこみがあったのに気付いたときは遅く、そこにすとんと落ちてその勢いで上り斜面に体ごとぶつかっていった。膝をしっかりと曲げて滑っていれば難なく通過できる斜面であるがそうはいかなかったのである。変な音がどこかでした。いやどこかではなく右肩でしたことがはっきりわかった。またもや見事な右鎖骨骨折である。直ちに救助隊が呼ばれ、すごい音と振動でもう一カ所どこか壊れるのではないかと思うような患者搬送用のスノーボートによって麓に搬送された。救護所の人には「きっと鎖骨骨折ですよ」などと自分の僅かな経験を元に偉そうなことを言っていたが、さてそれからどうするか心配していたら、古屋君が秋田市の実家に来いといってくれたので、図々しくも何の遠慮もなく田沢湖から秋田にタクシーで向かった。それまで長距離をタクシーでいくなどということはしたこともなく、道中では骨折で心配なことより自分はなんて贅沢をしているのだという思いの方が大きかった。秋田に着いたのは夜で、古屋君の実家の近所の整形外科の先生が待ち受けていてくれ、ギプスを巻いてくれた。鎖骨骨折に対するギプスは丁度剣道の胴着のようなもので、重くて不自由で大変な代物であった。そしてその日から古屋君の実家での逗留生活が始まった。二階の一部屋を私にあてがってくれ、ふかふかの布団に三食上げ膳据え膳の優雅な生活である。夜になると古屋君の友人達が集まってきて酒盛りなどが始まる。当然のごとく私も加えてもらい骨折のことも忘れるほどの楽しい日々が続いた。そうはいっても、夢のような生活はいつまでも続くことはなく、また時間が経っても骨折部位がなんとなくぐらぐらし続けている感じもしていたので大学の整形外科に相談するととにかく帰ってこいということになった。帰りの特急も何号車かは忘れたが1番A席で古屋君のお家が手配してくれたもので、最後の最後まであたたかな秋田であった。

診断の結果は案の定、骨癒合がうまくいっていないということであった。当時私は、尾身君、?新君、藤原君、児玉君らと共に整形外科学教室に入り浸っており、学生の分際でまるで教室員のごとくの振る舞いで、各自机を構え、病棟回診にも勉強会にも手術にもなんにでも首を突っ込み、果ては学会に行っては夜の部までも参加したずいぶん生意気な学生達であった。さてそんな中、骨癒合がうまくいっていない私の鎖骨骨折がやってきたので、なんとなんと「お前達で手術をやれ!」ということになってしまった。場所は外来手術室、オペレーターは手先の器用さに些かの心配のある尾身君である。不安な気持ちと共に私がベッドでまな板の上の鯉状態になっていると手術着を来たオペレーターが入ってきた。確かに上半身は手術着ではあるが下半身はいつものしわしわのベージュの長ズボンであった、あ~。オペレーターは「あれっ?」とか言いながらも手術は淡々と進み無事にキルシュナー鋼線が我が鎖骨の髄内に収まった。ただこの手術は局所麻酔で行われその痛みたるや相当なもので、手術中ずっと私の手を握っていてくれた?新君の手が私の手形のとおりに真っ赤に腫れあがっていた。申し訳ないことに当時の私の握力は50kg以上あったはずである。その後、感染を起こすこともなく、キルシュナー鋼線の先っぽが皮膚から飛びだすなどというちょっとしたこともあったが無事完治した。

数年前に早朝ランニングをしていてもう少しで終了という時、一緒に走っていた若い研修医がした質問に頭を巡らした時に景色が変わり、変な音がどこかでした。一瞬何が起こったかわからなかったが何故か地面に俯せになっていた。今度は見事な左5趾骨折である。相も変わらず詰めに甘さが目立ち、なぜか最後の最後に何かやらかしてしまうといった事象がずっとついてまわっている。

以上学生時代の史実を元にしたつもりの話であるが、なにぶん年を取ると都合の悪いことは忘れ、過去と自分を美化するがために、フィクションになっている部分が多々あると思うが、どうかご容赦いただきたい。ただあの時のタクシー代と特急運賃は古屋君のお家に用立ててもらったままで未だ返済していないことは思い出した、なんとかしなければ。

地面にぶつかる直前の芝生の色、くるまれた黄色いシートしか見えないガタガタドッカンの患者搬送用スノーボート、ふかふか布団に入って見上げた天井板の模様、酒盛りでラグビーのことを生き生きと話す古屋君の友人の顔顔、とてもおいしく待ち遠しかった朝昼晩のお膳、見送ってもらった時の秋田駅プラットホーム、尾身君のベージュ色でOの形をしたズボン、?新君の真っ赤になった手、みんな鮮明な画面としてしっかり頭の中に残っている。

我が「青春白書」は優しさに充ち満ちている。よかった。

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