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「自治医大 青春白書」 ~不思議なめぐり合い~

尾身茂

独立行政法人 地域医療機能推進機構(JCHO)(東京1期)

理事長尾身茂 東京都

自治医大の“青春”を思い出すたびに、人生の不思議さを感じる。

そもそも私は中学高校を通して医師になろうと考えたことは皆無だった。高校3年の夏から1年間アメリカに留学(AFS)した経験も手伝って、将来は世界を飛び回る外交官か商社マンになりたいと考えていた。1968年の夏、帰国してみると日本中が学園紛争で騒然としており、受験しようと思っていた東京大学の入学試験が中止となり、慶応大学法学部に入学することになった。ところがその慶応大学でもストライキに入り、反権力、反体制が声高に叫ばれる中、「商社マンや外交官」などと口にすれば「人民の敵」と言われかねない雰囲気であった。青春の彷徨の始まりである。ゲバ棒を持ってデモに参加するという気分にもなれず、さりとて「ノンポリ」に徹して勉学に打ち込むこともできず、徐々に大学に通う回数が減り、通学途中渋谷で下車して、某書店に入り浸り、哲学、宗教、人生論などの本を漁る日々が多くなっていった。そうした中、大学二年目も終わる頃、件の本屋で「わが歩みし精神医学の道」(内村祐之著)という一冊が目にとまった。医学など夢想だにしなかった私だったが、悩む青春の心には“医学”という言葉が人間的な響きを持ち、悩みを一挙に解決してくれる救世主に思えた。医学部受験を密かに決心し、両親に話す。普段おとなしい父親は激怒、何とか母の仲裁で勘当は免れた。医学部受験の勉強を始めて数カ月後の秋、全国紙の一面トップの「自治医科大学、翌春1期性を募集」の記事が目に入った。日本の「地域医療のメッカ」を目指すという。「地域医療」という言葉の響きが魅力的だった。しかも学費は無料だという。両親にこれ以上経済的に迷惑をかけるわけにはいかなかった。第一志望を自治医科と決めた。トイレと睡眠時間以外の猛勉強。運よく合格。

1972年4月。現在の看護大学、体育館、学生寮だけのキャンパスに、全国から、一期生が集合。現役入学の秀才たち、医学部に入ったのに、小説家風のA君、日曜になると教会に行くが普段は大酒飲みのB君、物理の定期試験に先生が試しに東大・物理学の大学院入学の問題を出したが解いてしまったC君、夜になると東北本線の電車の音を掻き消すように吠えるD君、外見に似合わず音楽的楽器をセンス抜群のE君、紅一点で注目を浴びたFさん、紙面がいくらあっても足りないほどの個性の集まりだった。

夏になれば、日光宇都宮マラソン、夜になるとラウンジでの宴会、訪中団を結成し文化大革命進行中の中国訪問、冬の軽井沢山荘での三日三晩の徹夜麻雀。それぞれが青春を謳歌した。

勿論遊んでばかりいた訳ではない。皆やるべき時には勉強にも集中した。試験の前になると、学生寮は不夜城と化す。空腹が募る深夜になると、タイミングよく、本屋の社長さんからお汁粉が届く。1期生だけで学生の数も少なく、教職員の方と学生たちの関係は緊密で、教授の家に夜遅く勝手に押しかけては酒を強要することもしばしば。

そうした傍若無人な若者を大学側が温かく見守ってくれた。素晴らしい先生方、仲間に囲まれて6年間を過ごせたことはまさに僥倖であった。

さて、話が突然変わる。自治医大の敷地が以前、畜産試験場だったとは、学生時代から何度も聞かされていた。「そうか、牛馬がここで生活していたのか。逞しく生きようと思っている我々には、相応しいじゃないか」などと、当時はうそぶいていた。

又、奈良時代、社会の不安に乗じ勝手に僧侶を名乗る者が多く出たために、鑑真和尚が奈良、九州筑紫と並んで、この下野の薬師寺に、正式な僧侶の資格を与えるための戒檀院(今でも大学から歩いて20分ほどにある)を設置した事も、学生時代から聞いていた。

しかし、WHOでの仕事を終え帰国後、歴史の研究者から聞いて初めて知ったが、“自治医大の敷地”のまさにその上を、平城京と蝦夷制圧の拠点であった多賀城(宮城県)を結ぶ官道(国道)が通っていたらしい。

そうであれば、薬師寺の戒檀院で修業をしていた僧侶の卵たちが、修行の合間に、足を延ばして街道を往来しただろうことは、想像に難くない。

当時の僧侶は、医師の役割も果たしていた。1200年以上の昔に僧侶を目指した若者たちが、様々な思い、志を抱きながら、歩いた同じ空間に今、医師を目指す自治医大の学生が学び生活している。

偶然入学した自治医大が、時を超え、人の悩みや不安に寄り添う僧侶養成機関とその精神において繋がっていたことになる。この不思議さを、卒業後38年経って今しみじみと感じている。

自治医大の更なる発展を祈りつつ本稿を終えさせていただく。

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