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「自治医大 青春白書」“あのころ自治医大は熱かった”

佐々野利春

ささの耳鼻咽喉科クリニック(長崎1期)

佐々野利春 長崎県

私、長崎は五島高校の出身です。当時はさして進学校ともいえない高校です。自治医大一期、開校したばかりのどさくさにまぎれて合格したような(補欠でしたが)。合格の連絡を受けて、すぐに私の頭の中に生涯の青写真が浮かびました。“内科医”として離島の診療所で勤務し、その後、五島の実家で開業して人生を終える、というものです。

それはともかく、もう喜び勇んで高校の職員室に駆け込みました。しかし、先生方の反応は“あっ、そう”というあっけないもの(私の予想では、良かったね、おめでとう!と言ってもらえるはずだった…)。離島や僻地に行こうなどと“殊勝な”考えの人間はそうはいない、受験すればだいたい合格するだろうとの発想だったようです。私が合格したんだしそんなものかな、と自分でも思うようになっていました。自治医に到着して他の一期生と会うまでは。

ところで私、それまで修学旅行以外で島の外に出たことは一度もありませんでした。もちろん東京は自治医の2次試験を夜行列車で父と行ったのが初めてです。合格して自治医に向かうとき、生まれて初めて“夢の”新幹線というものに新大阪駅から乗りました。そうして東京駅に着こうとしたとき、うかつにも反射的に大きな声で叫んでいました。「父ちゃん、東京タワーだ!」周りの乗客の視線が…、想像の通りです。大学に着いての初日、8人が1つのラウンジ、全員が集まって自己紹介です。私は「現役で五島高校出身」と言ったと思います。次が千葉の佐藤君「自分はスンダイのAクラスに2年間」、すると残りの6人がすごいという顔。私の頭は混乱です。スンダイ、スン大、駿大?そんなすごい大学あったっけ。失礼になってはと一生懸命配慮したつもりで「“駿河大学”というところを2年でやめてこの大学に来られたのですか」。皆、いすから転げ落ちる!(今年、一人娘が高校を卒業し医学部受験に失敗、東京の駿台予備校付近の塾に通っています。トホホ…)。この事件?で私のあだ名は“五島”になりましたが、おかげで佐藤君には最初の休日、東京へ連れて行ってもらいました。切符の買い方や電車の乗り方を教わり、ついでに千葉の佐藤君の実家にもお邪魔しました。これで私も都会人になった気分に…。

さていよいよ学生生活です。夏は公認のスゴイ(と皆が言う)プールにほぼ毎日泳ぎに、また素晴らしいテニスコートでテニスを、グランドではランニングを、ともかく100人ちょっとしかいないので施設は使い放題。クラブはバトミントン部、キャプテンは京都の金山君でした。小山の女子高校にも練習試合に行きましたが1セットも取れなかった(キャプテンが1セットだけ取った?)。1年で限界を感じやめました。また、空手部にも入部、静岡の山本君がキャプテンでしたが結構痛かったので3ヶ月くらいでやめました。また、大ラウンジで芝居、座長は確か高知の溝渕君、主人公が長崎の前田君だった?私はその他の一人です。12人の怒れる男(陪審員)だったと思います。また同じラウンジで仲良くなった岡山の塩出君とは卓球やテニスもよくしましたが、彼の中古の車(北海道の林君とシェアしていた)に乗せてもらって、食事に行ったり、日光のスケート場にも時々(自分用のスケート靴も購入)、また秘書の人たちと益子焼に行ったりもしました。そういえば中古車で思い出しました。1年目の終わりころ大分の竹田津君が我々の中で初めての新車、それも日産スカイライン2000○○をついに購入。寮の玄関前でお披露目会です。大勢集まりドアを開けて中を覗いたり触ったり、皆ため息をつくばかり(後日、某私立医大の学生駐車場は外車の新車がズラリだと聞きましたが、竹田津君の新車のほうが価値はあるんだと妙に対抗心が涌いた…)。夜は広島の淵上君の部屋に、鹿児島の木村君、富山の疋島君らと時々集まりました。サントリーレッドやホワイトの特大瓶(今はありませんが、し尿瓶のような形で取ってがついていた)、つまみはコンビーフとツナ缶(私、今でもこの2つを見ると当時を思い出します)。淵上君は政治経済に詳しくいろいろとぶちましたので、私らの間では“ぶち上先生”と呼んでいました(十数年前、疋島君が長崎に来た時、小さなバーで深夜まで卒後のお互いのたどった道を語り合い、後半は彼の壮絶な生き様の話に引き込まれていました。しかしその約半年後に彼の訃報が届き、世の中の不条理に何とも言えないもどかしさが込み上げました)。

さて、5年生の後半になると卒後の待遇が問題となり、一期生が寮の和室に集まり話し合いが持たれました。確か、広島の石川君や栃木の吉原君が音頭を取ってくれたと思います。その中で、長崎県が一番問題だ、となってきました。再研修などができないと僻地でいい医療ができない、との考えが皆の根底にあったのです。他の県の仲間からのプレッシャーもあり前田君と2人で冬、春、夏の休みに長崎県庁に出向きました。しかし結構きつい事を言われ、私の中に県に対する不信感が生まれていました。そして、逃げ道として耳鼻科という選択肢が頭に浮かぶようになっていました(この時“内科医”、いずれ実家の五島で開業して人生を終えるという設計図に少しほころびが、人生予定通りにはいかないようです)。

ところで、開学当初の世間の自治医を見る目は厳しいものがありました。週刊誌にも著名な医療評論家が“自治医は必ず失敗する。みんな卒業したらお金を返すにきまっている。僻地に行くような”殊勝な“人間なんてそうはいない。税金をどぶに捨てるようなものだ。”といったような主旨です。あの私の高校の先生の反応が多分世間一般的だったのです。そういった批判は一期生全員の耳に入りましたが、逆に自分たちがこの大学を創り上げていくのだという発奮材料になったように思います。先生方も若い方が多く、私たちにとてもフレンドリーに接してくれて言外に励ましていると感じました。しかし、先生方だけではありません。私、ほとんど毎日寮の食堂で食べていたので料理長(30歳代で若かった)と親しくなっていて(夕食時間の終わりごろに食べに行くと余りを付けてもらったり…)、その彼が自分たちも君らを陰から応援している。予算の中でできるだけおいしいものを探しているのだと真剣に話してくれました。また、昨年末には当時大学の事務をされていた道用さんという方が私の医院に立ち寄ってくれて「一期生は全員憶えている、自分たちもあのころ一生懸命だった」と話してくれました。そう、自治医大をみんなで創り上げようという大きなエネルギーの渦が大学全体をぐるぐるとまわっていたんです。今から思えばあのころ自治医大は熱かった!

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