医学部
School of Medicine
日本巡行記 よふけにどうぞ 嘗ての青年外科医の思い出話 “忘れえぬ患者さん”
(徳島2期)
住永佳久 徳島県
医師になって1年目のことだった
人の死に初めて立ち会ったのはいつだったろうか? 2歳の時に父方の祖父の死を自宅で迎えたはずなのだが、その日のことは覚えていない。悲しみの衝撃で忘れたのかもしれないが…。ただ四十九日の法要に我が家に人が大勢集まって、座敷に据えられた幾つかの火鉢で手を焙っていた光景をもってして記憶している。その次に身近な死として迎えたのは高校1年生の時の母方の祖父の死があったが、臨終の場にはいなかったので看取ってはいない。
学生時代のBST(ベッドサイドティーチング: 今ではBSLベッドサイドラーニング)では、病棟で入院患者さんの死を体験したはずだが、その死をどのように捉えていたのか?その際の個別の確たる記憶はない。医学生であって未だ医師でない時期の、短い期間で主体性のない臨床経験(<体験)では、死を看取る覚悟に乏しい状況だったのだろう。
大学卒業後地元に帰り、医師国家試験も無事通過して5月より大学附属病院外科医局レジデントとしてやっと医師という職業を得た。勿論主体性をもって直ちに診療に臨めたわけではなく、オーベン(上級医: 大学医局内ローテーションの関係で、5~7学年先輩)の指導の下に、ノイヘ(新人研修医: ドイツ語で新人を意味するノイヘレンの略)として張り切っていた。 そして新人外科医として経験を積み始めて2か月後のことだった。腹部の張りを主症状として地元の医療機関を受診し、大学病院に紹介されて入院となった患者さんを受け持った。
彼は私より3歳年下の22歳の若者で、屈強な体格を持ち徳島県の山間に位置する町の消防団員だった。5年前に父親を森林伐採中の事故で無くして、母一人子一人の境遇だと知った。今なら腹部超音波検査が第1選択検査だが、当時は未だ十分開発が進んでいなかった。 腹部血管造影検査が主流だったと思う。CT検査も未だ発展途上だった頃だ。何はともあれ精査の結果は“肝腫瘍”だった。同年代でもあり、病室を訪れた際には病状の把握の後はそれぞれの小学生時代の遊びや中学校でクラブ活動について話は弾んだ。
彼も私と同じく元野球部だった。
診療は別としても、その会話は友人関係に近かったと思う。独身で近くのアパートに住んでいた私は急いで帰る必要もなかったので、面会時間の終わった後は談話室で無理のない体制でソファーに座った彼と、消灯時間の来るまで話し込むことがあった。
肝炎・肝硬変など背景肝疾患のない肝腫瘍に対して、その頃の外科的治療はまだ開腹肝臓切除術の普及していない状況で、根治治療が難しいとされていた。
入院後これと云った積極的治療の術もなく徐々に腹部膨満が進み黄疸も呈してきて肝不全状態に至った。 やがて腹部膨満が強くなり、呼吸苦を呈するようになってきた。
そして入院後2カ月近くが経過したあの日、午後7時過ぎにお母さんの見守るなかで、 彼の自発呼吸が止まり、やがて心拍停止の瞬間が訪れた。
私が医師として初めて看取った患者さん(しかも友情を共感していた)だった。 その時に私はどの様に振舞っていいのかわからなかった。 彼の手を握って看取ったのだが、言葉は出ずに黙っていただけだった。 今なら『お疲れさん。よく頑張ったね!』と云える自信はあるのだが、その当時は思い付きもしなかった。 医師としてスタートしたばかりで己の無力さを嘆くなんて、そもそも不遜な感情だとその頃は思っていた。自分には医師としての力は全く持って無いのだから。 彼の母親(私の母親とそれ程歳は違わなかっただろう)に、お悔やみの言葉を探したが慣れていなくてなかなか見つからなかった。
頷いたまま10分近くその場に立ち竦んでいただろうか? 辛抱強く外で待ってくれていた私のオーベンは、しょんぼりとして部屋を出た私に、『長かったね』と声をかけてくれた。『何も言えませんでした』と答えた私に『でも君の心は伝わっているよ』とだけ言ってくれた。
この言葉が私を育ててくれたと今でも感謝している。
医師になって8年目のことだった
35年近く前のことだった。私は故郷徳島県南の海辺の町で30床程の町立国保病院に一人外科医長として勤めていた。医師は他に内科の院長だけだった。その町には四国八十八ケ所第23番霊場“薬王寺”があり、新緑の木々に覆われた山が海辺に迫る徳島の特徴 的地形を背景にした風光明美な港町で徳島有数の観光地だ。その後、NHK朝ドラ「ウェルかめ」の舞台にもなった。
その患者さんというのは52歳の男性だった。 彼は太平洋から紀伊水道に流れ込む荒波に削られた千羽海崖(せんばかいがい)や、点在する小島などを巡る小さな遊覧観光船の船長を生業としていた。仕事が終わった夕刻には、港近くの寿司屋で一杯飲むのを殊のほか楽しみにしていた陽に焼けた海の男そのものだった。その寿司屋で何度か出くわして盃を交わしながらお互いの日常を語り合う内に、20歳程の差は有ったが友情を感じる一人となっていた。
ある時「この頃酒が旨くないなぁ」とこぼしていたのを聞いて、「たまには検査をしたほうがいいんじゃないの?」と誘い、習い覚えた胃カメラ(当時はまだそのように呼称していた)検査を軽い気持ちで私が実施したところ、胃体部から前庭部に広がる深い潰瘍性病変を確認した。生検組織検査結果を待つまでもなく観ただけで悪性だとわかるほどの進行胃癌だった。直ぐに医局の先輩が外科部長をしている30km離れた総合病院に紹介し、手術時にはその執刀メンバーにも入れてもらった。開腹所見では既に肝転移、腹膜播種を呈していて、根治手術の適応は無かったが、潰瘍面からの出血もあったため胃切除術は実施された。
術後3週間で私の勤める港町の病院に帰ってきた。本人は気丈に振舞っていたが、徐々に腹水貯留が目立つようになり黄疸も顕著になってきた。 そしてある日、「飯は要らないが、酒が飲めたら元気が出るんじゃがなぁ」と言って家族を困惑させたのを聞いた私は、院長に交渉して個室病床での飲酒に目をつぶっていただいた。 しかし実際には飲むことなく、ただ飲んでもいいよと言われたことに満足していた様子だった。 数日後に、病棟からすぐ来てほしいとの連絡があり駆けつけると、家族の見守る中、ベッドのテーブルには 白い盃が二つ在った。 弱々しく「寿司は無いけど以前のようにこの盃で先生と乾杯したい」と云う彼に「勿論受けて立ちますよ」と応えて、実はほんの少しの水が注がれた盃を持ち、お互いに顔を見ながらニッコリとして、乾杯のまねごとをしたのだった。
患者さんであり友人でもあった船長は翌々日の朝、西方浄土に旅経った。
病気の治癒が望めない患者さんを担当する医師は、その現状にどのように対応するのがいいのか? 患者さんの最期をみとることも多かった消化器外科医として、『この状況で、自分がしてあげられることは 何か?』と考えて来た。 『病気に勝てなかったことは残念だけど、それなりに納得できる人生だったなぁ~』と患者さんに思わせてあげたい。
『あなたが担当してくれたことに感謝しています』との言葉ほど医療人に勇気を与えてくれるものはない。船長との乾杯は忘れることのない深い想いでとなって、その後の私の診療姿勢に影響を及ぼしてきたと思っている。
医師になって12年目のことだった
平成元年に故郷徳島県南の海辺の町立病院を離れて、大宮に新設された現『自治医科大学附属さいたま医療センター』の門を敲いた。
これは『人生一度は外科専門医としての自負を得ておきたい』という夢を捨てきれずにいる自分を認めての大きな決断だった。ただし『3年間だけの国内留学のつもり』と、当時まだ元気だった両親と家内を説得し、やっと理解と了承を得て実現にたどり着いたのだった(現実には以来30年以上の時間が経過しているのだが)。
平成3年の晩秋だったと記憶している。心窩部不快感を主訴に近医を受診し『進行胃癌』と診断されて、手術治療を目的に私の初診外来に紹介受診されたのは65歳の男性だった。野武士を彷彿とさせるような偉丈夫で、人生を達観したようにも見受けられた。家族の強い勧めもあり不承不承の感もあったが、胃切除術を受けることには同意した。 術前説明(当時はムンテラ【=ドイツ語でムントは口の事、テラはテラピーの略で治療を意味する和製英語ならぬ和製ドイツ語】と云っていたが、今ではICと云った方が通りがよいかな)では「胃亜全摘+リンパ 節廓清手術で病変は取り切れると思いますが、手術後には抗癌剤投与が必要になると思います」と説明したが、【癌治療に立ち向かう意欲】が窺えなかったことが気になっていた。
手術は問題なく終わり術後の発熱もなく経過は順調と安心していた。が、術後4日目に、教授による病棟回診が始まったばかりの時だった。 『お腹が張って痛がっている』と看護師さんからの報告があり、縫合不全による腹膜炎などの術後合併症が 頭に浮かび、教授回診同行をすっ飛ばして慌てて野武士のベッドに急いだ。
幸いなことに合併症の所見は無く、術後麻痺していた腸の蠕動が再開し始めたことに起因する症状であり、漸次痛みは治まり安堵したその日のその時の出来事をよく覚えている。
手術摘出標本の病理検査結果では廓清リンパ節に転移が認められ、やはり術後化学療法の適応ありと判断した。しかし退院前にこの状況を本人と夫人に説明して、外来での化学療法(当時は経口抗癌剤内服療法)をお勧めしたが、本人にはその意が無いとして承諾を得られなかった。退院後外来通院は1回だけで終了した(紹介元の近医に通院したいとの希望であった)。何故か彼のことが頭の片隅から離れず、術後1年ほどが過ぎた頃に、病状の経過を問い合わせる手紙を書いた。
「その後いかがお過ごしでしょうか? 術後に化学療法を実施していないので気になっていました。通院先 の先生に転移・再発のチェックをして頂いていますでしょうか?」
およそ2か月が経過したのちに、その返事が届いた。
『ご心配頂きましてありがとうございます。先生の治療方針に従わず、我が儘云って申し分けありませんで した。その後調子も良いように思いますので、通院は止めてしまいました。実は私は15歳の時火災に遭い、母親と姉と兄を亡くしてしまいました。私の命は拾ったもののように感じて今まで生きてきました。数年前に父親も胃癌で死んでしまいました。そして自分が胃癌と知った時には、それを乗り越えて生きていたいとの意欲が涌いてこない自分を知りました。家族の強い希望もあり、熱く語る先生の説明にも納得できたので手術だけは受けることにしたのです。幸い子供たちも健康で成人し、それなりに巣立っています。だから、もし再発した時には“それが私の運命だ”と悟り、親や兄弟のところに行きたいと考えたのです。私が手術後に腹が痛いと騒いだ時、先生が大きな腹を揺らしながら走って駆けつけてくれたことを時々思い出して頬が緩むことがあります。自分勝手な決意をお許しください』とあった。
この手紙はそっと執務室の机の引き出しにしまっていた。
その後転籍に伴う引っ越しもあったが、手紙は紛失することなく、いつも引き出しに存在していた。やがて20年も経過した頃だった。ずーっと引き出しに在ったその手紙をなぜか手に取って読み返してみたくなり、そして手紙を書いたのだった。
「突然の手紙で驚かせてすみません。まったくもってお久しぶりですね? お元気で過ごされていますでしょうか?いろいろと身の回りを整理しておりましたところ、引き出しの中に20年も前の貴方様の手紙を見つけ出しまして、懐かしく読み返しました。ずいぶん昔の事だったようにも、また遂この前の事の様にも思えました。云々」
半年ほども過ぎた頃だったろうか? 手紙を出したことも忘れかけた頃だった。 ご長男さんのお嫁さんから手紙を頂いた。
『お手紙ありがとうございました。“お腹の大きな先生にお世話になった”と語っていた義父は5年前に心筋梗塞で亡くなりました。義母からは“先生にはいろいろとご心配ご配慮いただき有難かった”と聞かされておりました。その義母も昨年から体調を崩し、入退院を繰り返しております。義母に代わって私がご返事を差し上げます。云々』としたためてあった。
胃癌再発による終末期で無かったことに安堵したが、もう少し早く2度目の手紙を出せばよかったと少し悔やんだ。
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