医学部 School of Medicine

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「自治医大青春白書」~わが青春白書~

吉新通康

(社)地域医療振興協会(栃木1期)

吉新通康 栃木県

自治医大の1期生は、学年会の「一期会」を毎年10月第1週の土曜日、市ヶ谷の私学会館で実施している。多くの人は想像できないだろうが、われわれ自治医大1期生が入学してしばらくは、東京で宴会をやって、先生方と小金井の駅で降りて、学生寮まで林の道を歩いて帰る時代だった。朝カッコーの声が全学生数たった百名余の大学構内全体にこだまする。学生寮の周辺には、車はなかった。みんなで鬼怒川にサイクリングしたこともあった。遠い昔だ。想いを馳せるといろいろ浮かんでくる。

毎年、一期会が近づくと、同級生は、何をしているのだろうか?と思う。同窓会では皆に会える。数年に1回、何十年ぶりの珍しい仲間もいたりする。懐かしい。「髪が真っ白になったね」などといって新しい顔を覗き込み、顔と声のデータを最新のものに更新しておこうと思うが、翌日になると、一度は何とか新しい顔が出てくるが、その後は昔懐かしい顔と声に戻ってしまう。今回、同窓会事務局から昔のことを書いてくれと言うので、記憶が断片的ではっきりしないが、遠い昔に思いを巡らしてみた。
一瞬にして人生は変わるものだ。昭和47年春、自治医大に合格した。東京の合格者発表で自分の名前を確認して、宇都宮の実家に戻ると、地元の新聞記者とカメラマンがコタツを囲んで待っていた。四大新聞を含め他紙の記者からも電話取材。詳しくは覚えていないが、翌日「この人が栃木の自治医大1期生、もうへき地医療の医師不足はこの人が頑張るので大丈夫ですよ」といった論調で自分の記事が書かれていた。同級の栃木の関口先生も大川先生も同じ状況だったようだ。

おそらく単に大学に合格しただけで地元紙とはいえ一面トップに出たのは、我々が最初で最後ではなかろうか?どうして?と思うが、正直、何だかわからない。自治医大1期生って、そんなにすごいことなんだ。

「あなた、面接試験で話したように、へき地にちゃんと行くんでしょうね?」「義務年限。いろいろ誘惑があるでしょうが、我慢できますかね」「一生へき地で働くことになるかもしれませんが。大丈夫ですか?」まあこんな類のいろいろな質問が飛び出してくる。本当にへき地に行くの?ハイ、行きます。多分行きます。いや、絶対行きます。一生を捧げます。だんだんエスカレートしてくる。いろいろと回答ができたが、なにせまだ見たことも、何も知らない自治医大。「どうも私は、地元のヒーローに1日でのし上がったようだ。」そうであるからには、一生一代の見栄を切らなければならない。記者も私も双方、現実感に乏しく質疑に力が入ってはいるが、へき地勤務の義務は6年後そして医師になってさらに遠い未来のこと‥。45年後の今の自分がその場に居たら腹を抱えて笑える遣り取りだったと思う。

宇都宮高校で高三の10月まで、毎日音楽、ホルン漬けの生活で、「世界で初めて高校生だけのオーケストラでベートーベンの第9を全楽章演奏、そしてレコードまで作製」という小さな新聞記事を誇りに、ずっとそのシナリオのなかで生きていた。クラス対抗合唱コンクールでは、3年1組は全校3位の栄誉に浴し、後に県教育長となった担任の池島先生との賭けに勝利し全員ラーメンをいただいた。高校の文化祭で当時流行りだしたフォークソングの演奏、片思いの彼女のいるウジョコー3年1組にお願いしたステージを飾るピンクのティッシュペーパーで作った友情のバラが、別な関係者から届けられ、山盛りに飾られていた。これが人生の最大のイベントだった。翌春、当然、浪人。仲間と東京へ、寮に住んで予備校に通った。この1年足踏みした絶妙のタイミングのお陰で、自治医大1期生になることができた。浪人の秋ごろ、家に帰ると親父が自治医大という大学が、石橋と小金井の間にできるという。へき地に行く義務があるが学費はただ、さらに生活費が貰える。という。京都にフォークソングで売れっ子の医師がいた。憧れた。自分もぜひ同じ医大に入り夢のような生活をしたい。だけど、生まれ育った栃木に、しかもあんな田舎の石橋に。まあ、自治医大、受けてみるか?予備校の寮でみんなに相談した「自治医大どう思う?」「お前。あんな大学に行ったら。医大は学閥が頼み、伝統も何もないし。大変だぞ」と今や某国立大学の学長様。「絶対、大変だって。一生へき地だろうな。人生終わっちまうぞ」とネガティブ オン パレード。(実は、反対派にも一期生になったやつがいた。)まあ大変なんだろう。というのが結論で。それでも受験。横川栃木県知事面接では「へき地に一生を捧げます。」そんな調子のいいのは自分だけかと思ったら。みんな私と同じで、へき地医療に一生を捧げたようだ。 新聞報道の翌日、高校への通学に使った10段ギアの自転車にまたがり、宇都宮から自転車で石橋の先、薬師寺にある建設中の自治医大に行ってみる。車の激しく行き交う国道4号線。東北本線の踏切を渡り、自治医大の工事現場へ。前日の雨で、入口は酷くぬかるんでいた。入口から高い遮蔽壁がずっと200メーターぐらいは続いていだろうか、今、思えばそこは2年後に白亜の本館が聳え立つのだが、泥道を壁伝いに行ってみると、その先に真白な3階建の校舎が見えた。白い校舎さらに東側には全面ガラス張りの体育館、それらを繋ぐレンガの茶色、さらに北にはアンツーカーのグラウンドと芝生、そして大きなプール、見たこともない全くの別世界。スゲーッ、「これが自治医大なんだ。」さらに奥に進むと大きな低層の茶色の建物が見え、自転車を降りて大きな木の扉の小窓から建物の中をのぞくと緑や赤や黄色の色鮮やかなパイプのフレームが天井に張り付いた大きな広間が見えた。寮の管理人らしい人が寄ってきて「あんた誰?」「今度、入学するものです」「どうぞ中に入って。ご覧になってください」 学生寮の大ラウンジに入った。私が一番乗りかな、大川君や関口君のほうが早かったかな? とにかく、自治医大での人生は、この時がまさに始まりだった。

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