医学部 School of Medicine

医学部

School of Medicine

インタビュー

(2016年4月 取材)

地域医療に大切なのは自己実現と社会貢献のほどよいバランス

白石吉彦

島根県隠岐郡西ノ島町 隠岐広域連合立 隠岐島前病院

院長白石吉彦 徳島県

誰もが避けたがる診療所を全国から研修医が集まる拠点に

島を発つ船のチケットは、行き先が「本土」とある。本土とは、島根と鳥取の港を指す。島の名は西ノ島。人が暮らす4つの島と180以上の無人島からなる隠岐諸島のひとつで、それらの島々を除けば、日本海をはさんで60km以上離れた本土が最も近い陸地。海が荒れれば船は欠航し、隣の島との行き来も困難となる離島だ。

白石吉彦がこの島の診療所に来たのは1998年のこと。この6年前に自治医科大学を卒業し、大学で2年後輩の妻・裕子を伴い、自身の故郷である徳島県でへき地医療に取り組んでいた。義務年限の後半を妻の出身地である島根県の地域医療で修めるに当たり、「徳島は山の中だったので、海がいい」と赴任したのが、隠岐島前診療所。当時は多くの医師が「島流しは避けたい」と考える職場だったが、旅人を理想の生き方とする白石には魅力的に思えた。また、裕子は在学中、白石の「アフリカで医者にならないか」という誘いにただひとり興味を示した女性。生まれたばかりの長男を抱いて、島に渡った。その後、19床だった診療所を、夫婦は二人三脚で44床の入院病床を持つ病院に格上げするなどの改革を断行し、今では年間に全国から100人超の研修医や学生が訪れる、へき地医療のモデル拠点に育て上げた。

周囲を取り込み協働して地域の健康を守る

白石が取り組んだ改革をひと言でいえば、医療・看護・介護・保健が連携し、ひとりの住民の健康を多くの目で見守る体制づくりと、医療に関わるスタッフが仕事の苦労とストレスをひとりで抱え込まずに済む環境づくり。つまり、地域が協働するシステムだ。例えば、ひとりで診療所を守る医師の負担を軽くするため、担当医の当番制を導入した。医師・看護師・介護士・保健師が一堂に集い課題を共有する会議を定例化した。

「地域医療は、長続きさせてこそ意味がある。ひとりが頑張りすぎて燃え尽きてしまったのでは、元も子もない。派遣されてきた医師が1年で交替では、患者さんも安心できない。へき地は職場と生活の場が近い。2年3年といれば、医師も住民のひとりとして認められる。患者さんの家族についても知れば、診察室で得られる情報も深くなり、より良い医療につなげられる」

白石家の子どもたちも、多くの島民に見守られて育った。「親の目が届かないところでも、悪いことはできない」と父は笑う。

さまざまな改革には、予算と手間がかかる。「幸い自治体も協力的で、スタッフにもやる気があった。5年後の医療を描いて関係者に説けば、変われると考えた。周囲を巻き込み事を進める経験があったわけではない。分からないことがあれば、その都度人に聞いたり調べたりして対応した」

白石が思い描いたのは、地域における総合診療の理想的な姿。それを実現することでより良い地域医療を提供できるようになるという確信もあった。そしてこれを「自己実現と社会貢献のバランス」と強調した。

白石が考える地域医療に、ストイックな献身という言葉は似合わない。もちろん島内で処置できない急病に対しては、船が欠航する暴風雨の中、海上保安庁に協力を求め、ヘリコプターで患者と共に本土の病院に飛ぶ。しかし容体の急変が気になる患者がいなければ若いスタッフに現場を任せ、本人は自慢のクルーザーで沖へ出て行ってしまう。東日本大震災では「行かなければ後悔する」と、顔馴染みの患者を置いて岩手県の山間部に向かい、自治医科大学の卒業生100人に呼びかけて総合診療医として被災地医療に当たった。こうした活動ができるのも、「在学中に優秀な友人と出会えたことと、意欲のある若い医師がこの島で経験を積んだこと」という。「この春、ここに3年4年いた若い医師二人が山間部の病院に着任し、“陸の島前病院”をつくるといって頑張っている」

後進の活躍を語る時、白石はこの日いちばんの笑顔を見せた。

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