医学部 School of Medicine

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自治医大 青春白書 -学生生活あれこれ-

夕部富三

いずみの病院(高知1期)

院長夕部富三 高知県

自治医大入学への始まりは、父親の願書提出から始まった。丁度受験ツアーに出ている最中に、自治医大という新しい大学が出来た。へき地に行く医師を養成する大学だそうだ。医学部を狙ってはいたが、田舎のどん百姓の三男では私立医大なんて夢の又夢。国立一期校と二期校と合間にある公立校を受けたら医学部受験はない。内容はともかく医学部にいけるなら何処でもよかった。受験で出ていて、帰宅して書類を書く時間がなかった。父親に願書を出してもらった。願書には作文が必要だったようだが、特にへき地医療に挺身しようなどとの気概もなかったが、元々田舎生まれだからへき地へ行くことには抵抗はなかった。父親の作文が功を奏したか補欠で入学することが出来た。学費はただで生活費も貸与してくれると言うではないか。どん百姓にとってはこんなありがたい大学はなかった(人生には運というものがあることを学んだ)。入学して寮に入ると8人が一つのラウンジを囲んで個室となっていた。学生寮のラウンジの壁は6棟別々のしかも原色であった。最初に入った3号棟が緑だったので落ち着いたが、赤や紫、黄色などはどうしたもんかと思った。原色に囲まれて生活するとどうなるのかを、学生を実験台にしているのかとも思ったりした。が、しかし、色にはなれるものでそのうち気にもしなくなってしまった(是が確かめたかったのか)。入寮早々大ラウンジの横に和室があって、麻雀台が備えてあった。早速4人で始めた、是が自治医大麻雀事始めであった。取り巻きも何人かみてくれていた。その後麻雀にのめり込み、この和室から朝授業に出ていく連中も現れた。

全寮制であり周りには何もなかったので、いろいろなサークルや部活動が盛んになった。その後自治体育大学との異名もとったこともある。あのような田舎(当然自治医大駅などはなかった)の閉じ込められたところでは青春の有り余るエネルギーを発散させるには部活動は必然だった。総勢でも100人ちょっとだったので、たくさんのクラブが出来たが、多くは掛け持ちであった。たしか3年生の時に北里大学との対抗試合があったが、わたしはサッカー、ハンドボール、バスケットボールと3つの試合に出た。クラブには受験に明け暮れて一度もやったことのないような部員もあちこちに出来た。受験勉強から解放されて思い切りクラブ活動が出来る喜びに浸っているものもいた。バスケットボールは6年生の東医体まで出た。文化系のクラブや同好会も作ったり参加をした。美術部、囲碁同好会、合唱部(かなり練習したが発表会当日熱を出して出られなかった。それ以後合唱はやめた。女子短大生たちと合唱が出来るなどとスケベ根性がいけなかったのかもしれない)。軽音楽ルートフォーにも所属した。ルートフォーも全く初めて楽器を持つものが当初は半分くらいいた。私もその一人だった。トランペットをやってみたがプスペラパーと音が出なくて、コンサートでは吹くまねだけして舞台を埋めた。ルートフォーの目的は各地団体などのダンスパーティー等で稼いで、カナダへ卒業旅行へ行こうというのが合い言葉だった。厚木の米軍基地へダンスパーティーの演奏に行く途中、首都高速で間違って往生したこともあった。近くでは丸大ハムのダンスパーティーの演奏にも行った。楽器や譜面台などを買ったりして当時200万円くらいかけたと思うが、その借金を返して終わり、カナダ旅行は夢と終わった。

学生寮では福井の松田君と部屋が上下になったことがある。松田君はどうかわからないが私はそれほど勉強熱心ではなかった。長時間の勉強は飽きが来て続かなかった。11時になるとどちらからともなく床や天井をこつこととたたき合図をする。これから飲み会をしようの合図だ。松田君の部屋に行き二人で酒盛りになる。なにせ毎日のことだから深酒はしない。12時過ぎにはねることにしていた、遅くても1時頃までにはねた。飲むのはウイスキーはサントリーの角瓶、日本酒では剣菱と決まっていた。大体数日で1本くらいのペースだったので、薬師寺の酒屋には貢献した。神経内科の水野先生がアルコールを飲む毎に脳細胞が脱落するのだとおっしゃっていた。大分早くからもの忘れがひどくなってきたのはこの頃の飲酒の性ではないかと思っているが、今更取り返しはつかない。かといって今やめても脱落した脳細胞が戻るわけでもなし、今でも性懲りもなく飲んでいる。

学生寮の北隣にかまぼこ形の教員住宅があった。いろいろな先生のお宅にお邪魔した。教員も快く学生を受け入れてくれた。くだんの松田君と時々生物学の大御所佐藤重平先生(東大退官後自治医大に来られた)のお宅にお邪魔した。お酒がなくなると無心に行くのであるが、快く迎えてくださった(?)と思う。イレブンPMを見ながら高級なお酒を頂くのである。そこでは学問以外の人生哲学なども学ぶことが出来た。今思うと本当に恵まれていた。他の若い先生方も学問的にも人格的にもすばらしい先生方ばかりだった。あの頃若かった先生方もほとんどが各学会の重鎮としてその後ご活躍された。中尾学長先生のお宅にも何人かで勝手にお邪魔した。中尾先生は学食でよくうどんを召し上がれていた。お食事をされている前に座り、数人の学生で今夜先生のお宅にお邪魔してもいいですか?というか半強制的に強引にお邪魔したのであるが、よっぽどでない限りご許可を頂いた。奥様には大変ご迷惑をおかけしました。この場を借りてお詫び申し上げます。奥様からは若い頃のご苦労話などもお聞きすることが出来た。中尾先生は学生一人一人の出身県や名前はもちろん成績なども覚えておられた。中尾先生は数人のグループ毎に懇談をされていて全員とお話ししてくださった。その後も後輩たちにも同じように懇談をされていたとお聞きしている。これほど学生を思ってくださった先生は他にはいないと思う。このようにすばらしい先生方に恵まれた学生生活を送れたことは誠に贅沢なことであった。いくら感謝してもしきれない。その万分の一でも恩返しが出来るような生き方をしなければと思う今日この頃である。

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