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同窓会会報から 小泉圭吾(三重県)

同窓会会報から 小泉圭吾(三重県)

やぶ医者大賞がもらえるなんて

鳥羽市立神島診療所 小泉圭吾(三重26期)

「先生、あんたやぶ医者の大賞とったらしいなー!」
授賞の知らせをもらった翌日。
一人の漁師さんがニヤニヤと診療所へ来て言い放って出て行った。そのあと、「医者屋の先生が何か賞をとったらしいぞ」と、やぶ医者大賞授賞のうわさが島内にひろがると、町内会長、老人会長を筆頭におじいさん、おばあさんたちがワラワラとつれだって診療所にやってきた。
中には「先生は本当に悪いことをしたわけではないんやな?」と念を押してくる人も。何度、やぶ医者の意味を説明したかわからない。「やぶ医者大賞は褒めてくれている賞なんやよ」と言うと、みなさんが自分の家族のことのように喜んでくれる。この賞をもらえて本当に良かった、こちらこそ皆さんのお蔭でやってこれているのですと感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、鼻の奥がツーンとして目を合わせられなくなった。

地域医療の分野で活躍され、受賞された歴代の先生方に比べるとあまりにも小さな取り組みであるため、 鳥羽市が推薦はしてくれたもののこの賞をいただけるとは思っていなかった。
神島は伊勢湾の入り口にある周囲4kmの小さな離島。ディズニーランドより少し大きい面積で、人口は336人、高齢化率は50%を超え、本土からの定期船は1日4 便、40分弱の距離。三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった島として世間には知られている。 この島の一人診療所長として、家族とともに移り住んで合計9年目を迎えた。
兵庫県養父市で行われたやぶ医者大賞の授賞式には30人近くの島民がバスをチャーターし駆けつけてくれた。みんなが書いてくれた横断幕。涙が出そうになった。
一方で、昔は都会のシュッとした医者になりたく て、へき地医療なんて全く興味なかったのに不思議なもんだなと笑えてきた。 調子に乗って都会の大学を受験し失敗。微熱が毎日出ていた自宅浪人中に、偶然本屋で目に止まった自治医大の赤本。あすなろ白書のようなキャンパスライフを思い描いていたのに、背が高い、三重県出身、調子 に乗りやすいという3徴を持っていたためいつの間にかガタイのいい人に囲まれて、勢いのまま入ったラグ ビー部。厳しい練習と突き抜けた明るさのおかげで屈折していた僕は開放され、腹の底から声を出し、笑えるようになった。
少し狂ったくらいの方が楽しいこと、自己犠牲、人それぞれに最適なポジションがあること、耐えた先には喜びがあることが分かった。病棟実習では怒られてばかりで、学籍番号の近い倉ちゃんと 小一原さんにはご迷惑をかけました。
卒後3年目からへき地勤務が始まったものの、真剣に取り組もうとしなかった。仕事にやりがいを見出すことができず、へき地から脱け出ることばかり考える日々。自分の無能をへき地という環境のせいにして、 自意識過剰で、周囲に文句ばかりを言い募り、やさぐれ、ラグビーで学んだことを忘れていた。
卒後5年目は自治医大での後期研修。毎日が充実していた。 ところが。 何故か「へき地でもう一度働いてみたい」と思うようになった。あんなにへき地で働くことを嫌がっていたにもかかわらず、だ。 なぜそんな思いが浮かんできたのか、その時は自分にも全くわからず、しかし徐々にその思いは強くなり、 いつしか自分がやるべき仕事はへき地にあるのだと思うに至った。
固く荒廃していた僕の心に、へき地で働く うちに“何か”が浸透していたのだろう。その上で、自分の将来をしっかり見据えている 同僚たちに刺激され、自分が為すべきポジションを真剣に考えるようになったからだと思う。
全く使い物にならない僕を先生、先生と頼ってくれた住民の方たち。暖かく時には厳しく教育してくれたスタッフの皆さん。いつも笑顔とお茶菓子で迎えてくれた在宅患者さん。 その優しさに応えられるようなへき地のお医 者さんになって恩に報いたいと考えるようになった。

卒後6年目の県人会忘年会。2次会で急に県庁の偉い人、先輩に囲まれ「小泉が行くしかない」とおだてられ、神島行きを決めてしまった。
神島に来て気づいたこと、それは島民同士の関係性の強さである。懐かしくも感じるような濃厚なつながりの中で医師をする。やりたかった仕事はここにあるな、と直感した。
神島は平地がほとんどなく階段坂道ばかり。不便にも見える離島という環境にもかかわらず、強い絆の中で毎日をとても楽しそうに過ごす姿。豊かな人生とはこういうものかと、嫉妬するほど羨ましく感じた。
神島には高齢者の介護施設はなく、本土からのサービスも十分に利用できない。島での生活が難しくなってきた場合は子供たちの住む本土へ出ていかないといけなくなる。神島で生まれ、神島で育ち、結婚し子育てをし、神島で年を取り、そして死ぬ。この当たり前のことが難しくなっている今、島で皆に囲まれて最期を迎えたいという希望に応えられるように、そしてなるべく長くこの素敵な島で生活ができるようにする。

それが神島の医者屋としての私の使命だと思った。
きっかけは神島での初めての看取りだった。家族、親戚、友人たちが枕元で、その人の昔の様子や思い出を笑い話をまじえ、皆で泣き笑いしながら息を引き取るまで話しかける。穏やかな死に顔と、それを取り囲む皆の涙に濡れた優しい笑顔。今までに経験したことのない暖かい光景を目にし、死生観、自分の仕事に対する意識が大きく変わった。素敵な最後をこの島で迎えてもらえるように全力を尽くしたい、そう思った。島での看取りは、看護師1人とヘルパーさん2人、そして家族、親戚、近所の人に助けてもらい、ほぼ島の力のみでやっている。
「患者さんの最後になるかもしれない希望を若い僕たちが叶えてあげなくてどうする」を合言葉に皆で昔ながらの連携の中で頑張っている。
また、最後まで生活することが難しくても、少しでも長く神島にいてもらえるような試みもしている。
認知機能の低下を少しでも緩やかにするために、高齢者を集めて週に3日、漢字の書き取りや計算、速音読などをしてもらう「しおさい学校」、筋力維持のために週に2日1時間程度のストレッチと筋力トレーニングを行なう「体操教室」を開催。島内の空き家を2件改装し、多目的自立生活支援グループハウスを整備、NPO団体「恋する神島」を設立。皆が集まっておしゃべりをしたり、台風時に避難できる場所を提供し、そこには昔の神島の風俗を偲ばせる生活家具を展示し、観光客の休憩場所としても開放している。また、生活支援として一人暮らしの高齢者をあつめて一緒に料理をする「お食事会」、島内に商店がなくなったため、お買い物に行きたい高齢者たちと本土への「お買い物ツアー」、本土のスーパーマーケットと「移動販売」の取り組みなどなど。

しかし、この10年で神島も他の離島も高齢化と人口減少が急速に進み、既存の方法での医療の継続が難しくなりつつある。鳥羽市には現在、離島4ヶ所を含め7つの市立診療所があるが、今後は7つの診療所を数人の医師と他職種で連携し、面で支えるグループ診療に移行することを目指している。現在、県、市とともに実現に向けて動き始めている。人口が少なくなっても、離島へき地の人たちが安心してそこで最後まで過ごせるように、安定した医療環境を確保できる、持続可能な体制を構築することが目標だ。急速に進むへき地の人口減少に、柔軟に対応できる新しいへき地医療の形を作っていくことが私達世代の仕事だと思っている。
ふらふらと惑いながらたどり着いた離島での仕事。それを天職だと思い始めている自分。自治医大の赤本を手に取る、ラグビー部に入る、神島に赴任する。偶然と外的要因に流される中でうまくいかない時もあったが、“身に降りかかる一切のことは絶対必然であると共に絶対最善である”という言葉が事実だと学ぶことができた。すべての場所で素敵な出会いに巡り合うことができた。本当に感謝しかありません。
これからも全国のへき地で活躍されている先生方に少しでも近づけるよう、謙虚に一途に、弛まず努力していきたいと思います。 そして「うちの島のやぶ医者はええ医者や」とみんなに喜んでもらえるような貢献ができれば最高です。